2675年 9月 29日 探訪
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此方は武茂川が那珂川に合流する手前に架る橋であります。 現在では歩道專用橋に成つてゐるのが目前に在ります舊橋でありまして、今囘の最初の目的でありました。 扨、では題名は如何云ふ事なのかと云ひますと、其は之から見ての御樂しみであります。呵呵 では此方、右岸側から見て行きます。 |
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更生橋。 いやあ、何か立派な意匠の親柱でありましたので色めき立つたのでありますが、良くみれば土臺部分との整合性が乏しいでありますし、 何か高欄も元々斯うだつたと云ふ感じでありましたので、案外新しい物件なのかも知れ無いであります。 |
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武茂川。 何か此方は銘板の色が黄色に成つて居りますが、如何やら色褪か何かでさう成つてゐるだけで、基本的に左側の銘板と同色だつた樣であります。 |
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桁に工事銘板が附て居りました。 昭和五七年の竣功なのでありますね。 成程、さう致しますと、親柱の意匠が珍しいと云ひますか、何かバブル物件の走り的な凝り方でありますのが意外でありました。 而も十二月竣功と、年度末關係無しと云ふのが此だけの年代では珍しいと云ふ感じであります。 |
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而も混凝土の主桁の形状が之でありますよ。 丸で昭和卅年代の物件、 【鹽谷町佐貫 廢止後ノ觀音橋】 のT字桁部分と似た樣な感じと云ひますか、間違無く技術的に進歩してゐるのでせうが、同じ樣な構造に驚きました。 |
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でもさう、肝心なのは川面を見下してからであります。 さう、岩盤に舊々橋の痕跡がしつかりと殘つてゐたのであります。 ええ、此處からが本題であります。 |
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して、左岸側にも橋脚跡でせうか、丸く等間隔に草が生えてゐた跡が見えるでは御坐いませんか。 此處で一つ思ひますのは、多分之はパイル形式の橋脚跡だと思ひますので、昭和廿年代から卅年代頃に造られた物件の跡では無いかと云ふ事であります。 |
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昭和廿一年から廿三年迄の航空冩眞で確認致しますと、當時は河川に對して出來るだけ直交する樣に架橋されて居りまして、多分木橋だつたのだらうと思ふのでありますが、
二、三徑間處の話では無く、もつと桁が竝んでゐる感じでありました。 其後、昭和五十年の航空冩眞で確認致しますと、架橋されてゐる場所は當時とほぼ同一でありますが、二、三徑間に成つてゐる樣に見えますので、 多分さう云ふ年代に架替られて居り、今囘の痕跡も、其橋の物であらうと推察する次第であります。 して、左岸側の橋臺が在つたであらう位置なのでありますが、もう何が何だか分ら無い状態でありました。 |
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他にも痕跡が無いか探して見たのでありますが、川面の方には御坐いませんでした。 と云ひますか、岩盤だと思つてゐた部分、若かして混凝土だつたのでせうか。 何かさう云ふ具合には見え無かつたのでありますが、ねえ、此刳れ具合を見ますと、何と云ひますかね、自然の力つて偉大だなと下手な感想しか出て來無いのであります。 |
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多分右岸側の橋臺跡は之だつたりするのかなと思ふのでありますが、季節が惡かつたでありますね、草生してゐて良く分りませんでした。 併しまあ、何か結構な頻度で架替られてゐる樣に思ふのでありますが、實は案外暴れ川だから、と云ふ事なのかも知れません。 尤も、現在の橋に成つたのは交通量の増加に伴ふ幅員的な事が要因だらうとは思ふのでありますが、 何處か歴史的な背景を感じさせて呉れる物件でして、十分に見應へが御坐いました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |