芳賀町上稻毛田 西家橋

2673年 10月 15日 探訪

 芳賀町上稻毛田地區に栃木縣道六一號線のバイパスが開通致しましたので、舊道側には若かして古い橋は在るのだらうかと航空寫眞を見て居りました處、 其らしい橋が確認出來ましたので見に行つて來ました。

 其が此方、西家橋であります。

 まあ線形的にアレだつたのと、六一號線の全體的な幅員的な部分でアレなのでのバイパス化なのでせうけれど、 此方の橋自體は幅員的に結構餘裕が有つた樣にも見受られますが、其でも現代の交通事情には合致し無く成つてゐた、と云ふ事でありますね。

 では此方、左岸側から見て行きます。
 にしいえはし。

 何と、銘板では無く直接混凝土に橋名が彫られて居ります。

 と云ふ事は、基本的に結構な年代物(昭和九年頃以前)の樣に思ひましたが、高欄の意匠から致しますと、案外戰後、 西暦で云ひますと1960年代の物件に見え無くも無いと云ふ印象なのでありますが、如何なのでせう。

 嗚呼、排水桝はああ云ふ感じであります。
 昭和三十五年十二月。

 成程、矢張さう云ふ年代でありましたか。

 併し一寸面白いのは、"竣功"迄は刻まれてゐ無い事と、銘板に當る部分に切目が入つてゐる事であります。

 と云ひますか、此年代でも混凝土に直接刻まれてゐる物件の在るのでありますね。

 是で、益々他の橋でも親柱、一見無名だと思つても良く見た方が賢明だと云ふ事に成りますね。
 高欄は如何にも此年代の特徴共云ふべき二本の混凝土柱を使つたものでありますが、下段側の柱が細く成つてゐる形であります。

 其と、親柱とは分離してゐると云ふ點で傳統的工法かなと、個人的には思つて仕舞ひました。

 でも何と無く、之は之で其當時の規格橋の樣な氣がし無いでも無いであります。

 では、右岸側へ移動致します。
 大川。

 補足的説明でありますが、大川は小貝川の上流部に當る支流であります。
唯、其最上流部は南那須町鴻野山、氏家町に入る一歩手前に迄遡る事が出來さうであります。

 銘板部分の混凝土、此方では依切目が鮮明であります。
 嗚呼、此方は銘板が無く成つて居ります。

 と云ひますか之、銘板に當る部分の混凝土は別體だつたのでありますね。
まあ之だけ綺麗に型取されてゐると云ふ事は、さう云ふ事だと想像に難く無いでありますから。

 して、多分此方には漢字表記の"西家橋"が在つたと推察するのでありますが、當然、之では不明の儘であります。
 直傍には斯う云ふ物、一級河川上流點を示す混凝土柱が建つてゐたのでありますが、之は何か法令的なアレでの事なのでせうか。

 調べるのもアレなので適當に書いて仕舞ひますが、此處が當該河川の始點と云ふ事に成り、多分當時、 此方西家橋竣功時期、若しくは河川改修が施工された當時の法令で、斯う云ふ具合に建てる事に成つてゐた代物なのでせうか。
 横から見ますと、混凝土の、多分T字桁橋だらうと思はれます。

 主桁、牀盤や親柱の位置關係が矢張如何にも昭和卅年代橋と云ふ感じで素敵であります。
個人的には彼の兄弟から親柱の出てゐる角度が素敵と云ひますかね、何か好きであります。

 して、航空寫眞で變遷を辿りますと、以前はもつと狹い、きつと一車線程の幅員の橋だつた樣であります。
其が此橋に架替られて幅員は倍程に成り、其前後の道の方が狹い儘に成りまして、將來擴幅されるであらう事を念頭に入れた設計だつたのでは無いかと推察致しました。

 唯、其でも交通事情の變化に伴ひ、バイパスが作られて仕舞つたと云ふ譯でありますね。
 でも平成十二、三年迄現役だつたのでありますから、立派だつたと思ひます。

 さう、バイパス側の橋にきつと橋名は引繼がれたのだらうと思ひ確認しました處、"辯天橋"との事でありました。
何の脈絡が有るのか良く分ら無いのでありますが、一寸、如何遣つて此橋の漢字表記調べようと思案して仕舞ひました。

 でありますが、後日も一度來て見た處、バイパス側に年配の方が居られましたので話を伺つて見ました處、 "西家"だと云ふ事が分かりましたので、無事漢字表記が書けた譯であります。

 爺さん有難う。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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