2677年 6月 5日 探訪
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此方は
【烏山町宮原 境橋】
から、途中にも古い橋が在る筈だと周圍を物色し乍栃木縣道廿九號線を東進する事約二キロ、何氣に見た道路左側に埋れる樣に在つた橋であります。 と云ふ事で、慌てて自動車を安全さうな所に止め、晴て御對面と相成つた譯であります。 して、ぱつと見に如何にも戰前橋と云ふ雰圍氣でありますが、手前の那珂川に架る境橋が昭和十二年竣功と考へますと、多分に此方も同年代頃の橋なのでは無いでせうか。 と云ふ事で、此方右岸側から見て行きます。 |
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戰後、昭和卅年代物件の樣な案外素氣無い意匠の親柱でありますが、附てゐる銘板は如何やら混凝土の樣であります。 と云ふ事は、大凡昭和十年前後頃迄の物件と云ふ事は確實だらうと思はれます。 と云ひますか、良く見えませんのでも少し近附て見てみませう。 |
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念彿橋。 中々に趣の有る字體であります。 其と、之で氣附たのでありますが、混凝土に直接文字を彫つてゐるとは云へ、銘板自體は後から親柱へ取附てゐるのでありますね。 |
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正直な處、欲を云へば、戰前物件なのでせうから笠石とかも少し裝飾が欲しい處であります。 |
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ねんぶつはし。 若干讀辛く成つて居りますが、未だ未だ判讀可能な状態であります。 併し何か作りが雜な樣な氣がし無いでも無い感じなのでありますが、若かしますと若干年代は遲れ、紀元節頃や開戰直前頃なのでせうか。 |
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高欄は菱形の穴が開いた、全面混凝土造であります。 まあ、現道との位置關係は斯樣な具合であります。 では左岸側へ移動致します。 |
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是又何共讀辛い状態であります。 |
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念佛橋。 此方、橋銘が左に寄せて彫られて居り、何と無く右側の方に「昭」と云ふ字と「十」、若くは「六」と云ふ字が見え無くも無いと云ふ感じであります。 まあ、さう云ふ年代の物件だなと云ふのは確定で良いと思ひます。 |
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ねんぶつはし。 諄く成るので此方は擴大した冩眞は載せませんが、手荒く状態が良い儘でありまして、文字の判讀も容易でありました。 |
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横から見ますと、多分之はT字桁だらうと思はれます。 其にしましても高欄の意匠が手荒くモダアンで素敵であります。 扨、竣功年を調べようにも既に廢橋でありますし、念の爲に土木學會附屬土木圖書館の橋梁史年表等で檢索して見たのでありますが、殘念乍何處にも記載されて居りませんでした。 矢張現役物件以外は難しいと云ふ事でありますかね。 では何時頃迄供用されてゐたのかと思ひ、大凡でもと思ひ航空冩眞を見ました處、昭和卅八年の時點で既に現在の線形に成つてゐる樣でありますので、 其頃迄で供用廢止されてゐると見て間違無いと思はれます。 して、地元の方の御話でありますと、此橋以外にも舊大澤川に架る橋が數本在り、河川改修の時に其内の一、二本は其儘地中に埋めてゐたとの事でありました。 其河川改修は昭和四十年代なのでありますが、流石昭和と云ふ感じの工事であります。 まあ、此方は其儘、舊大澤川の川牀と共に殘つた譯でありますが、出來る限り此儘殘つてゐて欲しい物であります。 併し、方や土木遺産でありますが、此方は其儘と云ふのも仕方が無い處なのでせうね。 拙は寧ろ此儘の方が好きでありますが。呵呵 以上、御附合有難う御坐いました。 |