2676年 11月 15日 探訪
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此方は
【烏山町下境 解石橋】
依り百廿米程解石川を上つた處に架る橋であります。 もうぱつと見に高度經濟成長期頃の橋と云ふ感じでありますが、其實は如何なのでせうか。 不取敢此方、右岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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親柱が橋臺側に無く、高欄の柱が親柱を兼てゐる橋の定番で當然の樣に無記名なのでありますが、笠石的な造形を施されてゐ度りと、結構凝つた造りであります。 其と、高欄は鐵管を一本だけ使用しました、矢張此當時、高度經濟成長期であらう特徴を備へて居ります。 |
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まあ當然下流側も同樣であります。 |
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して、左岸側を見ますと、何と無く懐しい丸い土管で排水されて居ります。 其と、謎の空地が御坐いますが、之は矢張當然の樣に舊線形の名殘でありました。 では、左岸側へ移動致します。 |
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まあ當然無記名でありますな。 |
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此方側の同樣であります。 おや、何か牀版に切目が見えて居りますね。 |
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之は中央部分が舊橋、と云ふ譯では無く、單に牀版の繼目が自動車の車輪が乘る部分だけ重みに因り罅割たと云ふ事でせうか。 先程の路盤後から致しますと、橋の位置が違ひ過ぎますからね。 |
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横から見ますと、之は牀版橋と云ふ形式でせうね。 扨、氣に成る竣功年でありますが、航空冩眞で確認致しますに、昭和卅八年では未だ舊線形の樣でありまして、昭和四九年には現在と同樣の姿に見えました。 と云ふ事で、昭和卅年代末頃から四十年代初頭、此姿からも其頃で間違無いと思はれます。 まあ、直下流側の解石橋が卅七年竣功でありますから、其前後に整備されてゐると見て間違無いと思ふのであります。 斯樣な姿の橋も段々と少く成つて來て居りますので、出來るだけ長く殘つてゐて欲しい物だなと思ふ物件でありました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |