2681年 1月 18日 探訪
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此方は
【國分寺町箕輪 箕輪橋】
依り二キロ程姿川を下つた處に架る橋であります。 まあ其樣子から如何にもな年代の橋と分りますが、其實如何でせうか。 と云ふ事で此方、左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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御使者橋。 【黒羽町物件】 では斯樣に平面的な親柱が散見されますが、姿川では唯一でせうか。 併し不相變無彩色で見辛いであります。 |
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橋名の由來は、江戸時代の頃、幕府や壬生藩主の使者が往來し度のでさう呼ぶ樣に成つたさうであります。 |
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橋歴板が親柱内側に附てゐると云ふ事は西暦1960年代と云ふ事でありますが、矢張昭和四四年三月竣功でありました。 |
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姿川。 何か、下流側と親柱の大きさが違ひますが、之は隣の歩道橋"紅橋"が竣功した時に合はせて轉落防止措置として延長され度のでせうね。 |
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見辛いので此方も近接で。 |
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高欄は後年に成り更新された物であります。 元々は 【上三川町石田 下石田橋】 の樣な姿だつた樣であります。 |
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排水桝。 |
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左岸側の桁にも橋歴板が附て居りまして、建造は國分寺町でありました。 では右岸側へ移動致します。 |
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姿川。 例外に不漏此方も兩岸で對稱配置の銘板であります。 何か親柱延長部分の仕上げが雜な樣な期がし無いでも無いでありますが、自動車でも打當つて補修し度からでせうか。 |
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御使者橋。 矢張原型が一番と感じましたが、現在の姿も惡くは無いかなと云ふ印象であります。 |
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横から見ました處、三徑間の鈑橋でありました。 最初、其程でも無い幅員から然程の交通量では無いと思つてゐたのでありますが、現地に來て思ひましたのは、結構な交通量だなと云ふ事であります。 一キロ弱程上に縣道四四號線の宮前橋が架つてゐるのでありますが、多分此方は南下する時の拔道と云ふか近道に利用されてゐると云ふ處でせうか。 其な此なで成程、御使者橋と云ふ名前も納得の便利さかなと思つた次第であります。 以上、御附合有難う御坐いました。 |