2677年 2月 21日 探訪
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此方は
【黒羽町南方 六月橋】
依り六百米程栃木縣道廿八號線を南下した處に架る橋であります。 物件紹介の方には五ノ澤に架ると書きましたが、正確にさう分つて書いてゐる譯では無く、大田原市橋梁長壽命化修繕計畫及大田原市橋梁長壽命化修繕計畫對象橋梁位置圖を見て、 橋名と其から推測される河川名、而も其で該當する橋梁が之一本でありますので、多分に此河川が五ノ澤で良いのだらうと云ふ推察からであります。 とまあ一々長くて諄い理屈は措いとゐて、ぱつと見で其也に期待出來る年代、多分に高度經濟成長期の物件であらうと思はれるのでありますが、其實如何でせうか。 不取敢此方、右岸側から見て行きます。 |
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親柱は無く、高欄の端の柱が若干太く、或る意味親柱を兼てゐる樣であります。 勿論、無記名でありますので現地では橋梁名等の手掛りは得られませんでした。 |
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此方下流側も同樣であります。 |
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横から見ますと、スラブ形式、所謂牀版橋と云ふ形式でありますね。 唯、橋臺を見ますと如何見てもT字桁が載つてゐる構造にしか見えません。 と云ふ事は、多分、舊橋の橋臺は其儘使用して、牀版橋に合ふ樣に嵩上げして桁だけ架替たのでは無いのでせうか。 では左岸側へ移動致します。 |
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まあ當然此方も無記名であります。 |
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同上。 高欄は鐵管を一本だけ使用しました意匠であります。 扨、竣功年でありますが、大田原市橋梁長壽命化修繕計畫で見ました處、昭和四一年でありました。 成程、矢張高度經濟成長期の物件でありました。 さうして、拙が今迄觀察して來た印象からでありますと、T字桁からスラブ形式に主流が變化してゐる頃の物件でありますので、主桁の形式的にも納得であります。 併しまあ、此方の縣道が完全に開通してからで無いと然程交通量は望め無いと思ひますので、多分此方が昭和四一年に架替に成つた背景としましては、 林業での材木の搬出が本格的に貨物自動車に成つて來たからと云ふ處なのでは無いでせうか。 まあ、良かつた時代の證として良い雰圍氣の物件でありました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |