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小貝川に架る國鐵眞岡線の小貝川橋梁依り二キロ程下流に在る橋であります。
架替られました一本上の町道七號生田目東田井線の橋も、元々は此方と同樣の橋だつたと思はれます。
まあ、御覽の樣に親柱も銘板も御坐いませんから、輕く簡單に見て行きませう。
不取敢、此方左岸側からであります。 |
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高欄は後年に成つてから取附られたのだと思はれます。
架橋當初から暫くの間は、中々に緊張を強ひられる橋だつたのでは無いでせうか。 |
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排水桝は無いのでありますが、横の方に水拔の穴が開いて居ります。 |
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彼の日は長靴では無かつたのと、夏眞盛りで手荒く草生して居りますので下には潛ら無かつたのでありますが、
此ぱつと見の樣子では、多分T字桁の橋だと思ひます。
して、多分元々餘交通量を想定してゐ無かつたのでは無いでせうか、可愛らしい六徑間の橋であります。 |
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して、別段アレな斯う云ふ規格橋を何故改て取上たかと云ひますと、橋脚の桁が載つてゐる部分の造型が初て見た姿だつたからであります。
單純に四角いのでは無く、柱が附部分が肉盛されてゐると云ふのか、其以外の部分が削られてゐると云ふのか、一寸手間が掛つてゐるなと思はせる姿でありました。
して、では何時頃架橋された物件なのだらうと思ひ航空寫眞を見ましたが、何と昭和卅五年の寫眞では其姿を確認出來ました。
小貝川が何時頃改修されたのか分りませんが、少し調べました處昭和廿五年に茨城縣で災害が發生して居りますので、其以降の十年間の間に架橋されたのは間違ひ無いと思はれます。
と成りますと、若かしましたら西暦1950年代物件なのかも知れません。
何か、思ひの外古い物件だつた事に驚きでありました。
して、其後益子町の橋梁長壽命化修繕計畫を見附まして確認しました處、昭和卅三年竣功の徒士橋(カチバシ)と云ふ物件だと分りました。
矢張結構な歴史的物件でありましたね。
以上、御附合有難う御坐いました。 |