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一見しますと別段取上る程の橋でも無い樣な氣も致しますが、良く觀察して見ますと結構面白かつたので取上る事に致しました。
此方は小貝川の支流に當る大羽川(オホバガハ)に架る上町橋であります。
ガアドレイルから察しますに、昭和四八年から五十年頃の架設でせうか。
但し竣功年度を示す銘板が附て居りませんでしたから、多分さうだらうとしか云へませんが、古三代目のガアドレイルでありますから、さう判斷致しました。
では不取敢、此方左岸側から見て行きます。 |
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さうして、別段普通の規格橋なのでありますが、普通一徑間、有つても二徑間で間に合ふ程度の川幅であるにも關はらず、何故か三徑間なのであります。
まさか昭和卅年代迄の橋桁に高欄だけガアドレイル物を附たのかと一寸思ひましたが、鐡桁の鈑橋でありますから違ふなあと思つた次第であります。
手前のガアドレイル、端材が附てゐ無いのに螺旋だけは附てゐるのが哀愁を感じさせて呉れます。
之は取れて仕舞つたのか最初から附無かつたのか、何方なのでせう。 |
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其に此桁と桁の高欄を無理矢理繋いだ感が堪りません。 |
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排水桝は斯う云ふ具合であります。 |
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して、何故に三徑間なのかと疑念を抱きつつ川面を見ましたら、何と古い橋脚跡が殘つて居りました。
形状的に尖頭型でありますから、大正頃から昭和初期の物と云ふ處でせうか。
此が完全に撤去出來無い状況でありましたので、苦肉の策で三徑間に成つたのかなあと推察した次第であります。
と云ひますか、寧ろ此當時の橋が見たかつたと云ふのが正直な處であります。
因に、之は右岸側から見た處であります。 |
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さうして、直ぐ上流側には立派な芳賀廣域農道が出來てゐるのでありますが、此方も此儘ずうつと殘つてゐれば良いなあと思ひました。
何しろ、之でも明治期の地圖にも載つてゐる、昔乍の道筋の橋でありますから。
扨、此方最初は名稱不明だつたのでありますが、益子町の橋梁長壽化計畫を見ました處、上町橋(カミチヤウバシ)と云ふ名稱であり、昭和卅七年の竣功と分りました。
道理で三徑間に成つてゐるわガアドレイル高欄が不思議な事に成つてゐるわと納得でありました。
でありますのでパイル形式の橋脚は納得なのでありますが、鈑橋としては結構早い時期の物だと思ひますので、貴重な物件かと思ひます。
以上、御附合有難う御坐いました。 |