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南那須町の三箇から小倉間を流れる荒川の支流長者川、偶々其近くの道を通つた時、古初代ガアドレイル高欄の橋が複數點在する事に氣附ました。
でありますので航空冩眞で調べた處、昭和四四年から四五年に掛て河川改修が行はれてゐた樣でありまして、其時に架橋された物件だと分つた次第であります。
と云ふ事で、だつたら其等の橋を全て見て來ようと思ひまして、冩眞に收て來た次第であります。
して、此方は先づ最初の一本目、廣域農道八溝グリインラインの下久保橋から三百五十米程下つた處に架る橋であります。
では實際には如何なのか、此方左岸側から見て行きます。 |
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横から見ますと、混凝土の所謂牀版橋と云ふ形式でありますね。 |
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右岸側へ來た處、先づ下流側の袖ビイムが不思議な事に成つてゐる事に氣附ました。
少し變形してゐる事から、邪魔に不成樣に斯うされたと云ふ處でせうか。 |
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と思ひましたら、上流側も同樣に成つて居ります。
但し此方は變形して居りませんので、豫防策として斯うされたのでせうね。 |
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螺旋は當時物だと思はれます。
但し柱に附る螺旋は表裏逆に成つて居りますが。
では次行きませう。 |
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御次は先程の橋から二百米程下流の處であります。
状態は良好でありますが、逆を云へば其は交通量が、と云ふ事でありますかね。 |
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順光側で見ますと、斯う云ふ構造であります。 |
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御次は先程の橋から三百五十米強程下つた處に架る橋であります。
上流側のガアドレイル高欄を見ますと昭和四九年や五十年以降の物件に思へますし、實際昭和四九年の航空冩眞では現在の姿に成つてゐると確認出來ますが、
下流側の高欄を見ますと、架橋後後年に成つてから擴幅された物件だと云ふ事が如實に分るのであります。 |
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紛ふ事無き古初代ガアドレイルであります。 |
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其處から更に三百七十米程下りました。
此方の交通量もアレでせうから、良好な状態を保つて居ります。 |
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御次は先程の橋から三百五十米程下つた處であります。
此方、一見しますとガアドレイル高欄が古二型でありますので昭和四六、七年頃に架橋された物件の樣に思へたのでありますが、
航空冩眞で見る限り今迄の物件同樣の竣功年と思へますので、如何云ふ理由で斯う成つたのか興味深い處であります。 |
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今迄のガアドレイルとは形が違ふのが御分り戴けるだらうか。
全體に丸味を帶びた意匠でありますし、接續、取附方法も違ひます。
其にしましても、袖ビイムが異樣な程に長いであります。
多分、橋長に對して合はせたからなのだらうとは思ひますが、凄いでありますよね。 |
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横から見ました處、鈑橋でありました。
多分でありますが、此方斜橋に成つて居りますので、混凝土桁依りも鋼橋の方が御手輕に出來ると云ふ樣な理由が有るのでせうか。
ガアドレイルが此方に成つてゐる理由は不明でありますが。
地覆には補強の鐵板が卷かれて居りますが、此は後年に成つてからの施工でありますかね。 |
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御次は三百米程下つた處であります。
此方も古二型ガアドレイル高欄でありますので、若かしますと鈑橋でせうか。
勿論、竣功年は今迄の物件と同樣であります。 |
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此方の袖ビイムは標準的な長さであります。 |
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矢張鈑橋でありました。
併し何故に此二本だけが鈑橋、而もガアドレイルも別な物なのか不明でありますが、新技術の實驗的な要素が盛込れてゐたのでせうか。
して、此方の地覆にも鋼材が卷かれて居ります。
其と、先程の橋もさうでありましたが、排水桝は全て土砂で埋つて居りました。呵呵 |
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扨、御次は二百五十米程下つた處に架る橋でありますが、此方は鴻野山驛の傍の踏切を渡つた處からの道の舊道部分であります。
まあ、先程の二本とは違ひ、最初の物件等と同樣混凝土牀版橋、且つ古初代ガアドレイル高欄なのでありますが、此方も斜橋なのでありますよね。
でありますので、彼の二本の意味が不明であります。 |
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御次は四百五十米程下、同樣に混凝土牀版橋であります。 |
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御次は四百二十米程下であります。 |
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最後は二百五十米程下の此方であります。
此處迄が昭和四四年から四五年に掛て改修、架橋された物件であります。
嚴密に云ひますと最後の三本は其以降の樣でありますが、まあ、同樣の形式でありましたので紹介した、と云ふ具合であります。
斯う云ふ具合に大々的な河川改修も今では少く成つてゐるでせうから、もうそろそろ歴史的物件の仲間入に成る日も近いのでは無いでせうか。
さう云ふ點では、此儘殘つてゐて欲しいなと云ふ感じであります。
以上、御附合有難う御坐いました。 |