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那珂川に架る、栃木縣道廿七號線の橋であります。
茂木町で那珂川を渡るには、茨城との縣境に架る國道一二三號線の那珂川橋か、烏山町迄行つて境橋を渡るしか戰前は立派な橋が無かつたと思はれますので、
斯樣に立派な橋が架かるのは、近隣住民の方々の念願だつたのでは無いでせうか。
場所の選定にも色々と難儀だつたのでは無いかなあと思へる橋でありますが、不取敢、此方牧野の左岸側から見て行きませう。 |
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大藤橋。
立派な親柱に横書の銘板であります。
左からの横書に戰後を感じさせて呉れますが、藤の草冠が歴史の繼承を感じさせて呉れてゐる樣であります。 |
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其傍には工事銘板が。
昭和卅七年十一月竣功であります。
之だけの立派な橋でありますが、二等橋の樣であります。 |
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那珂川。
親柱の意匠は中々面白いと思ひました。
道の幅員減少を知らせる意味合ひも兼ねてゐるのかなと思ひまして。 |
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高欄は如何にも昭和卅年代と云ふべき、混凝土を不斷に使つた意匠であります。
柱等、其々に傾斜させるのは昭和四十年代へ掛けて流行する、云はばハシリかと思はれます。
因に如何でも良い事でありますが、「不斷に(フンダンニ)」とは東京の方言の樣であります。
標準的には「澤山に」と云ふべきなのでせう。
高欄の上に後附されてゐるのは、後年に成つてからの高さの規程改正の對策でせうか。 |
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えゝと、何徑間だつたでせう。
嗚呼、七徑間でありました。
其と、工事銘板に書かれてゐた通りのPC桁でありますね。
T型と云ふのかな、之は。
素人なので分りませんが。
橋脚、大雜把に云ふと二段階に分けて形成されてゐるのでせうか。 |
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因に、排水桝は斯う云ふ感じであります。 |
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而も横側にも附てゐると云ふ凝つた造りであります。
では右岸側へ移動します。 |
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此が左岸側から見た時に結構な切通しに見えるのであります。
が、何か、丁度此方側は小高い丘に成つてゐる部分でありますのに、選りにも選つて何故此處に架橋の計畫を立てたのか一寸アレなのでありますが、
左岸側の條件の良い處は此處だけだつたと云ふ事なのでせうね。
多分。 |
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大藤橋。
左岸側と對稱であります。
何か此方は銘板の下が綺麗な状態に成つてゐる樣に見受けられます。 |
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工事銘板も對稱であります。
ん、綺麗な理由は、何かを親柱に遣らうとして埋めた跡が有るからなのでせうか。 |
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那珂川。
此方側も銘板の下に何か穴が穿たれてゐる樣であります。
其と、何方もなのでありますが、左岸側には見られ無かつた親柱下側に水拔きの穴と思しき物が開けられて居ります。
まあ其はさうでありますよね、之だけの切通しを作つたのでありますもの、流れて來た水は親柱の所に溜つて仕舞ひますものね。
嗚呼、何か竹林を通れば河川敷に下りられさうでありますが、實はきつと崖なのでせう。
多分。 |
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橋臺の傍だけは石積みの護岸に成つて居ります。
此のヒウム管は側溝からの排出口でせうか。 |
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同上。
親柱、良く見ると鐡筋が切られて居りますので、後年に成つてから穿たれた穴だと云ふのが良く分ります。 |
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左岸側へ戻つて來まして、袂に在る架設記念碑であります。
矢張り此處に架橋されるのが永年の願望だつた樣であります。
昭和廿九年八月の町村合併を契機とし、昭和卅四年度に取附道路の改良豫算が附、翌卅五年度に架橋工事費云々で卅七年に完成したので、
四一年に此記念碑を建立した、と云ふ譯でありますね。 |
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昭和廿二年の航空寫眞を見ますと、成程木橋なのか假橋の樣な物なのか、細く橋が架つてゐる樣には見えますので、此場所に架橋されたのも成程、納得であります。
と云ふ事で、此方の取附道路の白線の外側の部分が舊線形の名殘りなのでせうか。
其と、寫眞の様に、季節が良ければきつと色鮮かな景色が樂しめる處なのでは無いでせうか。
今囘は櫻の終り頃の季節でありましたが。
さう云へば案内板、元々は白看だつたのでは無いかなあと云ふ雰圍氣でありました。
其が一寸惜しかつたて゜ありますかね。
以上、御附合有難う御坐いました。 |