2679年 5月 7日 探訪
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此方は
【那須町東岩嵜 地藏橋】
依り三百米弱程奈良川を上つた處に架る橋であります。 ぱつと見、矢張此方も今時のガアドレイル高欄の橋と云ふ感じでありますが、良く見ますと何處と無く感じる違和感から、きつと結構な年代物だらうと云ふ感じでありますが、 其實如何でせうか。 と云ふ事で、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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親柱は何處にも無く、當然銘板も何處にも御坐いません。 して、御覽の樣に道路との傾斜を緩和する爲、左岸側は結構舖裝が盛られて居ります。 併しガアドレイルが手荒く綺麗であります。 航空冩眞を確認致しますに、何と無くでありますが皇紀二六六〇年には現在の樣に改修されてゐる樣に見受られました。 |
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地覆側に附此方の排水桝も其頃に出來た物でせう。 混凝土の質の違ひが如實であります。 |
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上流側を見ました處、何と元からの高欄の柱と思しき物が二つ殘つて居りました。 之だけでは如何云つた姿だつたのか想像出來ませんが、多分、混凝土管を一、二本使用しました意匠だつたのでは無いでせうか。 |
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右岸側へ渡り横から見ました處、之は混凝土T字桁でありますね。 而も多分昭和廿年代から卅年代の樣式では無いでせうか。 其と、此橋臺の造型から致しまして、元はちやんと親柱が立つてゐたのだらうと推察致します。 |
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再び左岸側へ戻りましたが、本來の奧州街道の袂に現在の橋の竣功記念碑が御坐いました。 竣功年度が横に刻まれてゐたのでありますが、如何にも判讀が難しく、此方では正確な竣功年度が分りませんでした。 多分に昭和廿年代から卅年代且つ二月かな、と云ふ感じだつたのでありますが、歸宅後に那須町橋梁長壽命化修繕計畫を見ました處、昭和卅三年でありました。 矢張さう云ふ年代だつたかと合點が行つたのでありますが、元の姿が失はれてゐるのが些か殘念でありました。 でありますが、安全性を重視すれば今の姿への改修も仕方が無いと云ふ處なのでせう。 何しろ、橋は好事家の爲の物では無く社會活動の爲の物でありますから。 以上、御附合有難う御坐いました。 |