2678年 4月 3日 探訪
![]() |
此方は、栃木縣道六十號線との分岐から二キロ程栃木縣道廿八號線を進んだ處、大和須川に架る橋であります。 もう其ぱつとの見た目、親柱が高欄依りも高いと云ふ意匠、親柱に直に彫られた文字からしまして戰前物件だなと云ふ印象でありますが、其實如何でせうか。 不取敢此方、右岸側から見て行き度いと思ひます。 |
![]() |
おほわす川。 もう餘の達筆具合に、三文字目が「わ」とは讀め無いのでありますが、是も皆發注者である首長が書いた文字を忠實に彫つた結果でせうから、まあ仕方無い處でありますね。 良く見れば一文字目の「お」でさへ怪しい感じで御坐いますから。 と云ひますか、原書が如何だつたのか見たい位であります。 併し、 【眞岡市島 御前橋】 の樣に「川」だけ漢字だわ正假名遣ひだわで、戰前物件確定でありますね。 |
![]() |
たなはし。 勿論、此方が「たなはし」だと直に讀める筈も無く、最初は何の暗號だらうと思ふ程でありました。 精々、馴染み深い「し」の字體で嗚呼、下二文字は「はし」だなと理解出來た程度であります。 其にしましても立派な字體でありますし、大きいく深く彫られてゐる分、手荒く讀易くて()有難いであります。 |
![]() |
高欄は二箇所で一對と成る、さう、丸で障子や襖の樣な感じの四角い穴が六箇所程設けられてゐる意匠であります。 上部がしつかりとしてゐる感じなのも戰前物件の特徴でありますかね。 其と、道路の勾配緩和策で全體的に舖裝が盛られて居りますので、元からの牀版、伸縮裝置が見られ無いのが殘念であります。 では左岸側へ移動致します。 |
![]() |
大和須川。 漢字に成りますと隨分と讀易い字體に成つて居ります。 其と、表面は一應洗出仕上にしてゐると云ふ感じでせうか。 |
![]() |
棚橋。 橋名の由來でありますが、國土地理院の地圖を見ました處、此處からも少し進んだ處の地區名が棚橋でありましたので、若かしますと其處からの命名でありますかね。 |
![]() |
横から見ました處、如何にも戰前物件らしい、丸で頬杖橋を想起させる樣な混凝土T字桁でありました。 扨、竣功年でありますが、是がさつぱり分りませんでした。 と云ふ事で各種特徴から想像する以外無いのでありますが、先づ正假名である事から戰前物件確定だと思ひますし、 親柱の混凝土へ直に文字を彫つてゐると云ふ點でも昭和十年前後以前だらうと推察致します。 尚且つ銘板的な裝飾が無い事から、若かしますと極初期の昭和若くは 【鹽谷町船生 白石橋】 の樣に大正物件なのでは無いでせうか。 翼壁の石積も單成玉石詰では無い樣な感じでありますし、初て見る感じの物であります。 是は不通縣道で名高い廿八號線だからこその物件だと思ひますし、如何して斯くも立派な橋が造られたのかと云ふのも謎でありますが、不取敢、 之はずうつと後世に迄殘つてゐて欲しい物件だなと思ひました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |