2678年 12月 4日 探訪
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扨、と云ふ事で
【日光市細尾町 大谷川橋】
依り右岸側で五十米程下つた處、舊橋跡へ遣つて來ました。 丁度舖裝が途切た處で、此處から先は現在堤防に成つてゐる處でありますが、砂利道に成つてゐる處が如何にも昔乍と云ふ感じで良い雰圍氣であります。 でありますが、如何見ても橋が架つてゐた跡には見えません。 ですが不取敢、此儘川牀へ降りて見ませう。 |
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少し降りた處、多分此處が元の道の高さで橋臺だつた處だらうと云ふ感じの平場が在りました。 此處から大谷川を渡河してゐたのであらうと思はれます。 然し今ではすつかり樹木が成長して居りまして、其面影が消えつつ、と云ふか既にほぼ無いでありますね。 |
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其横から更に降りた處に橋脚跡が在りました。 結構立派な基礎であります。 |
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尖頭型を期待して居りましたが違ひました。 然し何か、柱が微妙に中心に無いでありますし、其周圍の混凝土共何か違ひますから、後年に成つてから補強されて斯う云ふ形状に成つた樣な感じであります。 |
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何か無理矢理千切られた樣な感じの鐵筋であります。 圓く成つてゐる處を見ますと、如何やらパイル形式の柱が建つてゐた樣であります。 |
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少し進んでから振返つて見ました。 先程の所は堤防から三分一程降りた處だつたのでありますが、何か、橋臺だつた處でも無いのでありますかね。 如何にも何處が如何だつのかの位置關係も既に不鮮明な状態であります。 |
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して、之が進行方向、左岸側へ向ふ眺めであります。 先に橋脚跡が二、三個程確認出來ますのと、其先は橋臺でせうか。 |
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と思ひましたら、足元にも橋脚跡が御坐いました。 基礎が見え無い事から、此方は沈下したのでせうか。 其共、本來は斯樣な状態であり、他は後年に成つてから其々に補強されたのでありますかね。 |
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でありますので、見える範圍の橋脚跡、全て違ふ形状の樣な感じなのであります。 嗚呼、柱は全て五本だつた樣であります。 併し手前の物、隨分と削れて居りますね。 |
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基本的には 【喜連川町南和田 中橋】 の橋脚跡の樣な形状の基礎だつたのでは無いでせうか。 |
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次の物は柱に卷かれた金屬の御蔭か、何れ位の太さの柱だつたのか分り易いであります。 |
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直徑卅サンチと云ふ處でせうか。 併し之、或る意味手荒く貴重な物なのでは無いでせうか。 |
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併しまあ、之だけ大きい石が増水時には轉がつて來ると考へれば、之だけ角が削られるもの分る樣な氣が致します。 |
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此方の横には、是は多分橋脚の上部だと思ふのでありますが、落ちて居りました。 此處に載つてゐた桁は木だつたのでせうか、其共混凝土だつたのでせうか。 冩眞で初て氣附ましたが、柱の一部分も一緒に殘つてゐる樣でありますね。 良く見て措けば良かつたと後悔して居ります。 でも正直、此時拙は突發性難聽に成つて居り、此後醫者に行かうと思つてゐたので其方に氣が取られてゐたのであります。 |
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此方は可也良い状態の儘殘つて居ります。 其に柱の部分も今迄の物の中では一番殘つてゐるのでは無いでせうか。 |
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多分戰前の物と思はれるスピンパイル。 是は之で貴重な歴史的物件では無いでせうか。 |
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して、此方は橋臺に成るのでせうか。 其にしましても一徑間が手荒く短いのでありますが、若かしますと桁は木だつたと云ふ事でありますかね。 其と、何か隨分と川牀から低い橋だつたと思ふのでありますが、如何なのでせう。 |
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振返つて見てみました。 うむ、何だか良く分ら無い儘でありましたが引返します。 扨、竣功年や諸々なのでありますが、全く分りませんでした。 不取敢、大正初期の地圖には既に描かれてゐる事から、多分足尾銅山や古川電工關連で作られたのかなと推察致します。 其で以て、現在の大谷川橋と云ふ名稱の儘に此方が舊橋に成るのか、細尾大谷橋と云ふ名稱が元々で此方の橋を云つてゐたのかも分りません。 唯、今の國道一二〇號バイパスが出來る迄は、日光市内から足尾方面への此方の道の方が主要道の樣でありました。 其が第二いろは坂が出來てからは觀光資源として其方の方が主流に成つたので、現在の樣に改修されたのだと思ひます。 不取敢、完全に橋脚跡等も撤去されずに之だけ殘つてゐたと云ふ事は、或る意味良かつたと云ふか幸運だつたと云ひますか、拙の樣な好事家に取つては嬉しい限りでありましたし、 良い物が見られたなと云ふ感じであります。 以上、御附合有難う御坐いました。 |