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此方は、大川に架る栃木縣道六四號線の橋から上る事三百米強の位置に架る橋であり、戰後の如何にも橋と云ふ感じの佇ひが素敵な物件であります。
まあ、一見して大凡の年代は推察出來さうでありますが、如何なのでせうか。
では、此方左岸側から見て行きます。 |
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と思ひましたら何と、銘板が無いのであります。
何と無く無理矢理剥した樣にも見えますが、矢張何と無く元々附てゐ無かつた樣にも見受られます。 |
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ううむ、此方側もであります。
して、何と無く文字が彫られてゐる樣にも見えたのでありますが、單成る混凝土の成形時に出來た模樣でありました。 |
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親柱が高欄の柱も兼用する形でありますね。
高欄の意匠は、芳賀町や市貝町の逆傾斜親柱の橋で良く見掛る型であります。
では、右岸側へ移動致します。 |
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何とと云ひますか矢張と云ひますか、右岸側も同樣に銘板は無かつたのであります。
が、此方は外した形跡が無い樣に見受られます。
其と一寸氣附たのでありますが、何か親柱の位置が變ではありませんか。
親柱は大抵橋臺の方に建つてゐるのでありますが、此方の橋、桁の上でありますよね。
何だらう、高欄の柱一本けちつて斯樣な姿に成つたのでせうか。
其共、工費削減や工程の簡略化のための措置なのでせうか。 |
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と云ひますか、斯う云ふ形態の橋、何處だつたかの市町村で以前報告書きましたよね、確か。
確か斯う云ふ規格橋なのではないか等々と。
併し、何か有る筈の物が無いのは寂しいであります。
折角取附る場所迄作られてゐると云ひますのに。
後一つ不思議でありますのは、四本の親柱、何で下の方だけ白つぽく成つてゐるのでせうか。 |
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横から見ますと、桁の薄さに結構驚きました。
まあ元々其程の交通量、重量物の通行は見越してゐ無いからと云ふ事でせうし、單純桁でせうから其は當然でありますよね。
多分、今迄T字桁の見過ぎかも知れません。呵呵
して、何時頃架橋されたのかの推察でありますが、昭和四二年の航空寫眞では確認不出來、昭和四九年の寫眞では確認出來ました。
其と、高欄の下側の鐡管の位置からしまして、多分昭和四六年頃架橋された物件なのでは無いかと思はれます。
まあ、良くガアドレイル高欄の規格橋に成ら無かつた物だと感心した物件でありました。
以上、御附合有難う御坐いました。 |