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大沼川に架る栃木縣道三四一號線の前身に當る道、現在では栃木縣道一七六號線の橋であります。
大沼川は其始りを氏家町横町の舊母子センタア近くとする樣でありますが、此方の方迄續く物なのでありますね。
扨、此方五領橋でありますが、御覽の通り結構な斜め架橋であります。
其以前の姿を航空冩眞に求めますと、道路擴幅や河川改修等々で、丸で別物の姿に變貌してゐる樣であります。
其が何時頃の事なのかは見ての御樂しみと云ふ事で、不取敢此方右岸側から見て行きます。
左手が手荒く大きい御屋敷なのでありますが、領主の館、と云ふ處でせうか。 |
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太田堀。
ええと、行也河川名が違ふのでありますが、高根澤町では古くから太田堀と呼ばれてゐた事は確認濟であります。
と云ふ事は、後から全體を通しての河川名を大沼川と附た。
若しくは元々大沼川と云ふ處を、高根澤地内だけ太田堀と呼んでゐた、と云ふ事でせうか。
とは云へ、銘板には正式な河川名を附るのでせうから、此五領橋が出來た當時は太田堀と云ふのが此方の正式名稱だつた、と云ふ事なのでせうね。
多分。 |
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其堀の立派な堰も、今や廢止されて仕舞つてゐる樣であります。 |
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五領橋。
結構立派な親柱であります。
意匠的には何の特徴も御坐いませんが。
併し此處、交通量が多く運轉がアレな人が多い爲なのか、親柱に反射鏡が附けられてゐるのであります。
路肩から離れてゐるので然程打當る心配は無ささうなのでありますが、大抵皆直線番長且つ以下省略。 |
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桁はスラブ形式と云ふのか單純桁と云ふのか、さう云ふ系統でせうね。
高欄は鐵管を二本使用した、如何にも戰後、高度經濟成長期を感じさせる姿であります。
併しまあ、此方屋敷側を入れて撮ると半分は斯う云ふ冩眞でありました。
まあ、さう云ふ事なのでせう。
道路に起因するのかアレなのかは知りませんし一切關知(感知!?)致しませんが。
では左岸側へ移ります。 |
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ごりようはし。
嬉しい事に左右兩岸で對稱の銘板では無く、假名讀の銘板が附てゐて呉れました。
まあ正直、舖裝の盛つて有る現在の姿では無く、きつと混凝土路盤だつたであらう當時の儘の姿も見たかつたでありますが、交通量が多い處では桁の保護目的も有るのでせうかね、舖裝。
隣の水路橋は廢物件状態の樣に見受けられました。
併し立派な御屋敷であります。 |
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昭和三十三年三月竣功。
151系ビジネス特急こだま號誕生直前と云ふ感じでありますね。
日本が一番良かつたであらう時代の物件の樣な氣が致します。
下の方、結構な痛みが見られますが、其以前に見納めの日が近いので、今迄御疲れ樣でしたと云ふ感じであります。 |
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まあきつと、此方の御屋敷の前の大谷石積みで出來た護岸も同時期の施工だつたのでせう。
川牀も平らに成つて居りまして、中々に風情の有る造りでは無いかなと思ひます。
其と同時に、此堀を渡る橋も架橋されてゐるのだらうと思はれます。 |
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も一本も。
車止以上欄未滿と云ふ感じの造りや、小い乍も附てゐる親柱等、立派な出來榮へであります。 |
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最後に、井沼川との合流點から。
石積の護岸が素敵であります。
石積でありますと、足掛りや把手に成り良いのでありますが、石が採取出來無い事には出來ませんから、自然と廢れて仕舞つたのも頷けます。
さう云ふ點で、贅澤な護岸共云ふ事が出來ますかね。
まあ不取敢、間も無く姿を消して仕舞ふだらう橋を冩眞に殘せたのは幸でありました。
以上、御附合有難う御坐いました。 |