宇都宮市岩曾町 地藏橋

2673年 11月 19日 探訪

 【宇都宮市竹林町 大俣橋】 依り一キロ弱程上つて來ました。
全體の意匠としましては、餘り見た事の無い樣な、結構特色の有る橋だと思ひます。

 其と道形としましても、此橋の近邊だけが唯一、昔乍の儘の線形を保つてゐる部分の樣でもあります。
きつと舊橋からの架替後の年數や開發時期等、色々とした要因が重つての結果なのでせうね。

 と云ふ事で、逆に區畫整理の波に何時迄飮込れずに殘つて居られるのか、興味が盡無い物件であります。

 と云ふ事で、此方左岸側から見て行きます。
 地藏橋。

 藏の字が隨分と崩し字で書かれて居ります。
其に全體に手荒く素晴しい筆跡で書かれて居りまして、實に惚々致します。

 其と、親柱は根元から折てゐるのでありますかね、針金で何とか延命されてゐるのが痛々しいであります。
 御用川。

 當然の如く、此方の筆跡も素晴しいであります。

 併し此處、結構路肩が削られて居りまして、一寸川に落ちるのでは無いかと思ひ、驚きました。
 高欄は鐡柵を使つた簡易的な物かと思ひきや、柱の混凝土が結構重厚な感じでありますし、中央の柱が良い目印に成つてゐる感じであります。

 再塗裝する等の手入れが爲されてゐ無い樣で殘念でありますが、錆の儘なのも又、良い味はいであります。

 何か、奧の一部分がアレなのでありますが、まあ如何せ其内大幅に改修、若くは架替と區畫整理等が行はれるのでは無いでせうかね。

 では右岸側へ移動致します。
 昭和三十六年三月三十一日竣工。

 さう、此白い石に黒い塗料で書かれた銘板、昭和廿年代から卅年代の特徴なのでせうが、字が掠て讀み辛く、 場合に依つては判讀不能状態に成つて仕舞つてゐるを何箇所も見て居ります。

 尤も、さう云ふ事つて年月が經過し無いと分ら無い事でありますから仕方が無いと云へば仕方が無いのでせうが、出來れば補修して呉れると有難いなと思ふ次第であります。

 まあ、其處迄銘板讀む人何てほとんど居無いのでせうが、ね。
 ぢぞうばし。

 うん、一寸勘辯して欲しい處であります。

 之は辛うじて判讀出來たから良いのでありますが、以前の眞岡市の 【眞岡市西田井、根本-八條 赤堀橋】 は眞白状態でありましたから、何と云ひますか、ねえ、實際。

 然し之、一見「ぢぞう」だ何て如何にも正假名遣ひの樣でありますが、正假名で表記すれば「ぢざう」では無いでせうか。

 昭和卅六年と云へば、口語假名遣ひに成り拾數年、多分に未だ未だ正假名遣ひと混同して仕舞ふ事が多かつたと云ふ事でせうか。

 まあ其でも、斯う云ふ具合に銘板位の大きさでの誤表記なら可愛いと思ひますよ。
大々的に「どぢやう」を「どぜう」と書いて仕舞ふ依りは。
 橋臺と桁は斯う云ふ姿であります。
所謂T字桁の混凝土橋でありますかね。
而も結構な斜橋具合でありまして、御金と手間が掛つてゐると思はれます。

 さうして、斯う見ますと昭和卅年代と四十年代の桁とでは、同じT字桁でも工法的にも呼名的にも違ふのでせうかね。
何か、RCとPCと云ふだけとは違ふのかなと思ひまして。

 併し橋臺附近の崩れ具合、御分り戴けるだらうか。
實は案外急斜面でありまして、愼重に歩を進め無いと川と戲れる處でありました。

 一見未整備状態の樣でありますが、橋臺近邊は混凝土で整備されてゐる樣でありますから、之では落ちたら上るの困難でありますよ。
 下流側、宇都宮市内方面を眺めた景色であります。

 多分此方側は未整備の儘殘つてゐるのだと思はれますが、出來れば此姿の儘ずつと殘して措いて貰ひ、現代の子供にも本當に自然の儘の姿を見て、 何かを感じ取つて欲しい處であります。
何しろ、ほぼ市内中心部でありますから、斯う云つた自然つて手荒く貴重だと思ひますから。

 と云つても、元々は江戸時代の人工河川でありますがね。呵呵

 左岸側の木、腐つて枝が切落とされたのでせうか。
さうで無ければ、嘸や立派な木だつた筈だと思ふのでありますが。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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