2673年 11月 18日 探訪
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大谷觀光の中心地、大谷觀音の直ぐ傍に在る小じんまりとした橋であります。 其幅員からして二間程でせうし、佇ひからも結構な年代物の物件かと思はれます。 殘念乍親柱は全て失はれ、と思ひましたら一本だけ殘つてゐるのでありますが、不取敢まあ、此方右岸側から見て行きませう。 |
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最初見た時には此處に橋名等が書かれてゐるのかなと思つたのでありますが、さうでも無い樣であります。 唯、何かしらの彫刻的な物が施されてゐた樣な雰圍氣は感じられます。 で以て、最初は手荒く痛んだ混凝土だなと思つたのでありますが、良く見ますと大谷石なのでありますね。 まあ、大谷石なら之だけ風化してゐるのも納得であります。 |
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此方もさうでありますね。 併し此邊の姿川の護岸も大谷石の樣でありますが、積方と云ひ汚れ具合からしましても、ずつと以前からの物の樣に感じます。 |
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橋の中央部に比較的大きな柱を擁してゐる事から、昔乍の樣式に倣つて作られた物件だと云ふ事が想像に難く無いであります。 何か、良い雰圍氣であります。 併し之だけすかすかな高欄、今作つたら問題に成りさうな感じでありますね。 では、左岸側へ移動致します。 |
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大杉橋。 辛うじて一本だけ殘つてゐる親柱の御蔭で橋名が分りました。 併し其にしましても立派な意匠の親柱であります。 まあ、意匠と銘板からしまして此方、 【上河内村上小倉 新堀橋】 に近いと感じますので、多分昭和十年代頃の物件かと思はれますが、何と無く昭和廿年代の樣な氣がし無いでも無いであります。 |
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如何云ふ譯か、此方には穴が穿たれて居ります。 何だらう、他の部分にも何か取附られてゐた痕跡が在りますから、斯うして穴を穿つてから外した、若しくは外し始まつたものの、記念に兩端部だけは殘さうと云ふ事に成り、 斯う云ふ儘に成つたと云ふ事なのでせうか。 では親柱は何の爲に無いのか等、疑問が盡きません。 と思ひましたら此處、青い塵出の時の網の下に何故か親柱が横たはつて居りまして、姿川の銘板が附てゐる樣でありました。 と云ひますか、竣功年が一番知り度いのでありますが。 |
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もう一箇所、右岸下流側に親柱の痕跡が在つたのでありますが、現存してゐれば若かすると竣功年が確認出來たかも知れ無いと思ひますと、些か殘念であります。 まあ、其も之も歴史だと思へば良いだけでありますが。 併し何か、鐵筋は入つてゐ無かつた樣な感じでありますね。 無鐵筋の混凝土造りと云ひますと、矢張結構な年代物つて事でせうか。 |
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横から見た方が當時の雰圍氣が感じられるでせうか。 桁的には單純RCT桁、と云つた處でせうかね、分りませんが。 重複して書いてしまいますが、併し之だけ高欄の隙間が空いてゐて良いのかなと最初思つたのでありますが、元々は何かが附てゐた樣な痕跡が分かりますと、 端の部分と同樣大谷石が嵌込まれ、モルタルで固定されてゐたのかなと想像致しました。 若くは鐡等の金屬で出來てゐた物が附られてゐたが、戰時中の物資供出に因り取拂れて仕舞つた等も一寸は考えへ度のでありますが、 さう致しますと柱の部分にも何かしらの破壞の痕跡が殘つてゐる筈でありますから、其は違ふなと思つた次第であります。 でもまあ、之は之で良い風情だと思ひますし、現存してゐるだけでも素晴らしいと思ひます。 とは云へ、其ちやんとした竣功時期が不明なのでありますが、多分桁や高欄の意匠等から察しますに、昭和十年代や廿年代迄の物件と云ふ事で間違ひ無いと思はれます。 其と、さう云ふ年代から致しますと大谷石の風化も然程では無いと思へて來ますので、良い時代に産出された物はモノが違ふのだなあと改て感心する次第であります。 以上、御附合有難う御坐いました。 |