2673年 3月 12日 探訪
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【現在地】 ・路線距離:寳積寺驛 - 鐺山驛(宇都宮陸軍航空廠) 十一.七キロ ・皇紀二六○二年(昭和十七年)十一月六日 運行開始。 ・皇紀二六○五年(昭和廿年)十一月一日 廢止。 本來は鐺山驛迄辿るべきなのだらうが、今と成つては原型を留め無い部分が多數を占る爲、せめてもの名殘りとして、線形改良で殘された寳積寺地内だけ探索す。 鐺山驛のプラツトホオム跡は氣が向いたら。 此邊から分岐してゐた筈である。 |
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驛構内、多分東端の空いてゐる部分が當線の部分だつたであらうと思はれる。 |
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斯うして見ればさうだつたと云ふのが御判り戴けるだらうか。 |
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何故に線形改良されたのかは不明。 多分にン田が來る爲に分讓地として整備し、光陽臺、寶石臺とする爲だつたのだらうとは想像に難く無いが。 金を落とす者こそ正義。 以下省略。 眞正面の小さなゴミ集積場が撮影するには一寸邪魔である。 |
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何と手荒く素晴らしい線形だらうか、見てゐて惚れ惚れする。 若干下りつつカントを附て曲り、再び登りに轉ずる何て素敵過ぎる。 是非共當時の運用を見てみたかつた物である。 |
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都市開發何ぞされ無かつた方が良い景色だつたらうに。 開發された後の光陽臺を初て見た時の拙の印象は"異樣"。 とは云へ、其が時代の流れと云へば其迄。 |
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因に、右手には結構な窪地が存在するも、何が如何成つてゐるのかは不明。 |
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後は只管に續く直線でほとんど終點迄續いてゐる、或る意味速度無制限區間。 直線飛ばす奴はカアブが遲いと云ふ御約束。 |
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文盲許で讀無い標識「とまれ」。 御願ひだから時間も止まれ。 斯うして歴史は風化する。 然らば、大日本帝國。 拙が命を賭して護り度かつた國。 今はもう、知らね。 如何でも良いや。 |
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2675年 6月 2日に鐺山驛跡を見て來ました。 左側、土手の上に見える混凝土がプラツトホオム跡の樣であります。 成程、何か上に建物の土臺の樣な物も見えますが、餘りアレでも不審者に見られるでせうから、此冩眞だけにして措きました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |