2673年 3月 12日 探訪
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【現在地】 下坂の南側合流點から南下する事五十米程、本來は下坂から續くと思はれる道へ遣つて來ました。 此方を進んだ先に在るのが今囘紹介する物件であります。 正式名稱が分りませんので、ネツト上で書かれてゐた名稱を參考にさせて戴いて居りますが、大まかに云つて跨線橋である事に間違ひは無いと思はれます。 でありますので、確か國鐡に架る物件は全て國鐡所有だつたと何處かで聞いた樣な氣が致しましたので、國鐵の物件としての紹介であります。 併し此方、何と無く下坂からの延長上に在ると思へ無くも無い線形なのが御分り戴けるだらうか。 |
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線路に向つて下つて行きます。 境界標を見ますと、案外廣く用地を確保してゐるのが分ります。 |
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此方がさうであります。 道幅的には一車線分程度でありますが、橋自體では二車線分は確保出來さうな廣さであります。 |
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橋の袂に在る境界標。 木の方は恐く枕木の流用でありますよね。 丁度下坂から一臺の自動車が出て來た處でありますが、此方から見た方が線形的には分り易い樣な氣が致します。 |
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南側から。 多分、此方に國鐡が開通した當初は總煉瓦作り、若しくは石積の坑口だつたのでは無いかなと思ふのでありますが、 東北本線の複線化に伴ひ開削され、混凝土製の坑口に作り替へられて居る樣であります。 其でも隧道の樣式を備へた造りに倣つてゐる姿だとは思ひます。 因に、昭和卅六年の航空寫眞で、開削されて混凝土が打終つた許と思はれる姿を見る事が出來ます。 |
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北側から。 ううん、何か幅が勿體無い樣な氣も致しますが、斯う云ふ物なのでせうか。 と云ひますか、若しかして此方の道の爲に隧道の樣な形式にしてゐるのでせうか。 全體を隧道にすると工費も嵩むので切通しにしつつも、道が通る部分だけは若干の線形を改修しつつ隧道にした、と云ふ樣な。 併し此方、ガアドレイルの内側に在る杭が元々の柵なのでせうね。 |
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上側からの寶積寺方面の眺め。 單線時代にはも少し北側、法面の終る邊りにももう一本跨線橋が在つた樣でありますが、複線化に伴ひ撤去されて仕舞ひました。 多分鐡橋だつたので撤去、等とは言ひませんよ。呵呵 |
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同じく南側。 併し此だけの部分を開削つて、手荒く手間だつたでせうね。 隧道でも良かつたのでは無いかと思つて仕舞ひますが。 |
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普段汽車に乘つてゐると全く氣附か無い場所なのでありますが、身近な歴史と云ふ感じで氏家驛南側の暗渠共々に面白い物件でありました。 而も斯うして見ますと、中々に素敵な眺めでありました。 唯、左右で掘割の傾斜が違ふのは、明治から大正に掛けて鬼怒川橋梁の架替が有つた關係からかも知れません。 多分。 以上、御附合有難う御坐いました。 |