2673年 8月 27日 探訪
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扨今囘は上野發の東北本線が初めて潛る隧道、針生隧道であります。 此方は明治廿年に完成した栃木縣の土木遺産なのでありますが、一體如何云ふ姿なのか見て行かうと思ひます。 上下線が分かれる邊り。 結構廣い山の裾野を開鑿して掘割にし、隧道へと向つて行く樣でありまして、其姿は丸で築堤の樣であります。 と思ひましたら、後に知つたのでありますが、此上下栓の間、實は築堤でもありまして、元々は此處を驅上つて山を越えてゐたさうであります。 道理で築堤の樣に見えると思ひましたら、築堤其物だつたとは。呵呵 |
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陸羽街道との跨線橋部分。 上下線其々の部分の竣功年を知り度かつたのでありますが、現地では不明でありました。 多分、下線側は複線化された昭和卅年代半ば頃だらうと思ふのでありますが、同時期に架替へられてゐさうな感じに見え無くも無いであります。 して、眞中の部分が開業當初の路盤なのでありますが、當初は踏切、だつたのでせうね。 多分。 |
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下線側から築堤の護岸を見る。 何かですね、玉石積みなのは普通なのでありますが、如何にも成るべく平らに成る樣、表面が削り取られてゐる樣に見え無くも無いのであります。 一寸、否、手荒く違和感を感じたのでありますが、皆樣には如何見えるでせうか。 |
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此處から見ますと、どの樣に山を開鑿し、且つ築堤にし度のか良く分かります。 併し道理で此處、上下線が分れてゐるのか納得であります。 築堤を壞す手間を考へましたら、別な處に掘つた方が簡單でせうからね。 場所が確保出來てゐればでありますが。 と云ひますか、さう、此處つて意外と難所に見え無くも無く、場所の選定も結構大變だつた樣に見え無くも無いのであります。 |
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扨、では下線側を見てみませう。 嗚呼、栃木縣の土木遺産のペイジでは上線側がさうだと書かれて居りますが、航空冩眞で確認しました處、此方下線側が舊來からの隧道であります。 まあ多分、間違ひとかでは無く、其方の方が工法等で貴重なのかも知れません。 では本題。 針生と書かれて有りますね。 勿論、今では隧道では無くトンネルと表記すべきなのでせうが、明治廿年に開通した當時は隧道と呼んでゐたでせうから、其に倣つて隧道と致しました。 して、鬼怒川橋梁も箒川橋梁も上線が元々の線を使用してゐますので、此方もきつとさうなのでせう。 と思つてゐたのでありますが、航空寫眞を確認してゐました處、此方下線の隧道が元々の物なのであります。 と云ふ事は、複線化に伴ひ、結構大掛りな附替工事がされた事だと思ふのでありますが、一體何處で上下線を入替てゐるのでせう。 |
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して、此方が元々の隧道だとしましても、何故に煉瓦が使はれた形跡が見受られ無いのだらうと思つたのでありますが、
年度の詳細は不明でありますが、矢張大規模な改修工事が成されてゐた樣でありまして、如何やら一囘り程廣げられてゐる樣であります。 因に其の資料でありますが、ネツト上で公開されてゐる、昭和五年發行の土木工事寫眞集でありまして、 【此方】のペイジを見て戴けると、 拙の云はんとしてゐる事が分つて戴けると思ひます。 併し良く見ますと、何と無く煉瓦積みのアアチ環を模した樣な模樣が御洒落であります。 と云ひますか、ポオタルが此處迄剥出しなのも不思議な感じであります。 意外と土被りが少い隧道なのでせうか。 嗚呼さうさう、隧道手前で擴幅されてゐるのが見て取れますね。 |
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一方、此方が上線側なのでありますが、まあ、ええ。 でも馬蹄形では無く圓アアチと云ふのが珍しいと云へば珍しいのでせうか。 護岸も石積では無く混凝土以下省略。 |
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反對側から。 嘗て此處、複線化に伴ひ出來た上線は民家の庭先を通つてゐたさうなのでありますが、其面影を伺ひ知る事は出來無く成つて居りました。 と云ひますか、さう云ふ事がずうつと言ひ傳へられて仕舞ふと云ふのも些か考へ物と云ひますか、可哀想でありますね。 併し上下線の間が隧道以前の遺構だつたと云ふ驚きを内包した物件でありました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |