2676年 1月 12日 探訪
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【現在地】 氏家小學校の裏手、東北本線に向つて進む小さな路地が御坐います。 曾ては踏切で東北本線を越え、直先で 【小倉街道】 に接續してゐたのでありますが、現在は踏切が廢されて仕舞、小倉街道の踏切部分で合流する樣に成りました。 して、今囘は其廢された踏切跡を見て行かうと云ふ所存であります。 と云ふ事で、いざ參りませう。 |
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此處が其踏切跡であります。 現在ではガアドレイルにて塞れ、且つ左に折る樣に成つて居りますが、舖裝の切方等から、曾ては眞直に道が伸びてゐたと云ふ感じに見えると思ひます。 |
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反對側が廢道状態でありますので、其塞ぎ方は廢止當時の儘なのでは無いでせうか。 勿論、線路内に踏切跡を偲ばせる物は一切殘つて居りません。 |
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まあ御覽の樣に四十米程南側に小倉街道の踏切が御坐いますので、廢止も當然と云へば當然でありますよね。 |
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と云ふ事で、反對側へ遣つて來ました。 一應整備されてゐる感じでありますが、墓地への入口に成つて居りますので、其は綺麗にして措か無いとアレでありますよね。 |
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此方側の封鎖は古い枕木を使用して居ります。 開口部危險と在りますが、最早誰も此處を横斷しようとし無いと思ふのであります。 まあ、さう云ふ意味では無いと思ふのでありますがね。 扨、併し、此枕木は一體何時頃の物なのでせう。 當然の樣に蒸氣機關車が走つてゐた時代のなのでせうが、何か、其だけで感動的であります。 |
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其直横には小川が流れて居りまして、境界標も建つて居りました。 |
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線路から墓地迄の間は薮化して居りますが、まあ仕方の無い事でせう。 |
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して、小倉街道と合流であります。 で以て、此處に石碑が何個も建立してゐるのも納得であります。 |
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路肩の小川との護岸、多分廢止される以前の作りの儘なのでせう。 |
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此不自然な部分も、元の道路用地だつたと思へば納得であります。 扨、では一體何時頃廢止に成つたのかでありますが、航空冩眞を頼りに致しますと、昭和卅九年から四二年の間に掛ての頃の樣であります。 最初は東北本線の複線化に伴ひ廢止の方向に成つたのでは無いかと思つたのでありますが、複線化後も少しは殘つてゐた樣な感じでありますね。 |
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【現在地】 で以てもう一本、此處にも曾ては第四種踏切が御坐いました。 奧に見える二つの柵が其唯一の名殘であります。 まあ、自分の腦味噌を遣へ無い現代人には第四種踏切等正しく渡れ無いでせうから、廢止して當然でありますね。 以上、御附合有難う御坐いました。 |