2672年 1月 17日 2673年 4月 16日 探訪
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【現在地】 國道四號石神交叉點から二百五十米程北上した邊りに或る白鬚神社。 其の反對側に入る小路が今囘尋ねる下坂へ向ふ道であります。 下坂は僅か二十米程で標高差二十米を登ると云ふ、多分自轉車では無理さうな坂なのでありますが、僅かとは云へ舊道が在りますので、走ら無い(歩か無い)理由は有りません。 では、參りませう。 |
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先づは如何にもな良い雰圍氣の集落内の道を拔けて行きます。 若しかしますと、此邊りも擴幅されてゐるのでは無いかと思ひます。 |
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現在は區畫整理と云ふのか圃場整備と云ふのか、不取敢線形改良されて居り眞直ぐ下坂へ向ひますが、電柱は正直であります。 見事に當時の線形の儘の位置に建つて居りますので、元々の線形が何處へ向つてゐたのかが良く分ります。 |
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電柱の邊りからぐるりと囘り込んで來るのでありますが、其面影、若しかしますと石積の部分がさうなのでありますかね。 何と無く葛折の樣な感じだつたのでせうから、自動車では一寸窮屈だつたのでせう。 内側には高根澤町の境界標が亂立してゐました。 |
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其先は改良されて居りまして、全くと云つて良い程に面影は無いと思はれます。 因に下坂が改修されましたのは昭和六十年でありまして、此直線部分は其時の姿と云ふ事なのだと思ひます。 |
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とは云へ、此處は擴幅するにしましても、結構苦しかつたのでは無いでせうか。 因に、此處迄來るのに當然の如く自轉車は降りて押歩きであります。 |
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此處は何故に斯う云ふ線形なのでせう。 若しかして、之が昔乍の線形部分なのでせうか。 ガアドレイルの合はせ方が職人技かと思はせて呉れます。 |
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して、此處が分岐點であります。 と云ひましても、元から兩側へ分岐してゐた樣でありますが、現在では右手に分岐する側のみが改修して生かされてゐる樣であります。 |
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當然、拙の目的は此方、使はれ無く成つた側の道であります。 一應石等が置かれてゐまして、車兩の進入は防いでゐる樣であります。 |
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何故に使はれ無く成つたか、其は激坂なのであります。 之では馬車等も無理だつたのでは無いでせうか。 短い乍も雰圍氣滿點な道なのでありますがね。 |
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【現在地】 手荒く急な坂を登ります。 と云ふか、殘り數米で之だけの高低差が在ると云ふ事が驚きであります。 其と同時に、此方を廢してなだらかな方だけにしたと云ふのも納得であります。 |
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其傍には道祖神と云ふのか地藏と云ふのか、所謂石佛や石碑、古い境界標が竝びます。 石佛や石碑は、多分手荒く古い(江戸時代等)時代の物では無いかなあと思ふのでありますが、建立年度等は見當りませんでした。 併し如何ですか、此勾配。 奧のガアドレイルが見え無ければ、雰圍氣的には完全に古道であります。 |
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現道との取附部分にはU字溝が在り、而も歴とした蓋がされてゐる譯では無く、適當な材木で塞がれてゐるだけでありまして、
且つ内何箇所かは消失して居り、思はず踏拔きさうに成りました。 でも此が良い味はいを出してゐるのであります。 昔つて斯う云ふ感じでありましたよね、所謂溝板は。 |
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對して此方、現在の下坂でありますが、此方は此方で舊線形であらう部分に記念碑が建てられて居ります。 道路の傍迄密集してゐる森、是では下坂側から合流しようとしましたら、手荒く見通しが惡くて大變だつた事と思はれます。 して、昔は奧のに見える直進の標識の處迄繋がる道だつた樣な感じであります。 |
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事實、道路を横斷した少し先には、畑の中に栃木"縣"の境界標が建つてゐましたから。 |
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扨、では一杯建つてゐる石碑を見て行く事に致しませう。 先程の下坂改修記念碑は竣工昭和六十年十一月と成つて居りました。 此方の勝善神は上部が缺損して居りまして、後側へ廻つて見ても丁度元號の部分が無く、十年正月廿八日建立と記されてゐるだけであります。 其はもう立派な鑿跡で刻まれてゐるのでありますが、肝心な處が不明なのが些か殘念であります。 其横、是が一番の驚きなのでありますが、梵字の下に「奉納 百堂念佛供養塔 敬白」と彫られて居りまして、 何と之が享保十六年十一月吉日と成つてゐるのであります。 享保ですよ享保、西暦で云ふと1731年、何と云ふか、三世紀近く前の物でありますよ。 是には一番魂消ました。 |
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御次は若しかして一里塚かな、と云ふ盛土の樣な處に鎭坐する石碑でありますが、左から馬頭觀世音、勝善神、馬頭尊であります。 馬頭觀世音碑は判讀不能だつたかな、不明でありましたが、勝善神は明治十年十二月、馬頭尊は明治六年十一月(十二月共讀めさう)でありました。 此方も百年以上餘裕で現存してゐるのでありますから、廿一世紀でも、ずうつと後世に殘し度い物は石に刻むに限りますね。 |
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御次は野中萬吉と云ふ方の墓碑、でありますかな。 此方の御方は嘉永五年十一月生れ云々、まあ立派な方だつた樣でありまして、大正十三年四月に建立された樣であります。 |
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さう云ふ石碑が竝ぶ處、此處も此方の道の舊線形部分に成るのでは無いかなと云ふ感じの小路に見える部分でありました。 右手の盛土、何か不自然で一里塚の樣に見え無くも無いと云ふの、御分り戴けるだらうか。 |
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して、其直ぐ傍には一つの御墓が在るのでありますが、此方が一番衝撃を受けました。 齋藤幸次郎と云ふ方の御墓なのでありますが、何と、徴兵に因り西南戰爭に驅出され、明治十年に戰死と云ふ事が刻まれて居りました。 嘉永三年生れ共刻まれてゐるのでありますが、此處にひつそりと百年以上も佇んでゐる事に、何故か涙が溢れて來て仕舞ひました。 何と云ひますかね、色々と思ふ處有りますので書きませんが、最敬禮して迹にしました。 何かですね、單に舊道を見ると云ふだけで來ましたのに、色々と、丸で歴史の寶箱の樣な處だつたんだなあと、思はぬ濃い探索に成つた事に驚きました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |