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何時もの夜の徘徊道程前半にして最も大好きな道、敢て公僕的呼稱を友人と勝手に附けて呼んでゐる、自稱"烏山サアキツト"。
其矢張り勝手に決めた終點に在る、以前から氣に成つてゐた如何にも古風な欄干の橋が此方、きたたばしであります。
因に其公僕的呼稱には全く何の意味も無く、強て云へば「平穩が戻つた場所」と云ふ意味合からでせうか。
では、此方右岸側から見て行きます。 |
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ううん、斯う云ふ場合に自動焦點は困ります。
手前の草木では無く銘板に焦點合はせ度かつたのでありますのに。
嗚呼、肝心の銘板でありますが、昭和卅三年三月竣功であります。
斯う云ふ、白い石(大理石でせうか)に文字が書かれた銘板、現在では判讀不能に成つてゐる物も多いのでありますが、此方ははつきり讀む事が出來ます。
但し何か一寸、文字の横の痛みが激しいでありますね。 |
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如何にも橋と云ふ感じの、弧を描く意匠の高欄であります。
但し此方、昭和卅年代物件とは云へ前半だからでせうか、如何にもな混凝土卷立管を使つた姿では無く、昭和廿年代に通ずる意匠であります。
左岸側の方を見るとアレでありますが、路盤には結構舖裝が盛られて居りますかね。
併し相變はらずのピンボケで相濟みませぬ。
では左岸側へ移ります。 |
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きたたばし。
親柱の大きさや上部の意匠等、戰前から昭和廿年代に掛けての名殘りが感じられる雰圍氣であります。
其と、線形改良に依り擴幅されて居りますが、此方上流側は其儘殘された爲、當時の姿が今でも樂しめると云ふ譯でありますね。
まあ多少現在の線形とは違く成つてゐるのも大した問題では無いのでせう。 |
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では横から桁や橋臺等を
あ・・・、
舊橋の痕跡を發見して仕舞ひました。
此橋脚跡は・・・多分木橋の物だつたと見るべきでせうか。
とまあ其は措いといて、一徑間の混凝土桁橋でありますね。
所謂RCTと云ふ方式なのでせうか。
多分。 |
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えゝと、先づは橋臺でありますが、元々の部分と擴幅部分がはつきりと分ります。
其と、橋臺前後の左岸側の護岸の違ひもアレでありますね。
方や混凝土塊團を敷詰た物、方や混凝土を塗固めた物、と。
して、肝心の舊橋の橋脚跡でありますが、良く見ると石造りの樣であります。
石を加工した物を敷詰て、其中央部分に立てた木の橋脚を水流から守つてゐたと見るのでありますかね、何かさう云ふ感じに見えました。
其と、道自體も今依りもも少し上流寄りに通つてゐたのでありますね。
但し殘念乍當時の橋臺跡は兩岸共に確認出來ませんでしたが。
て、當然でありますよね、河川改修だつて何囘もされてゐるのでありますから。 |
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擴幅側はね、斯う云う、如何にも規格橋と云ふ感じであります。
まあ多分に單純桁と云ふ物なのでせうかね。
何時頃擴幅されたのかは、多分近くの荒川橋が架換へられた頃合ひと同時期では無いかと推察致します。
ぱつと見には逆傾斜の親柱が昭和四十年代してゐて好印象なのでありますが、銘板も何も附てゐ無いのが玉に瑕であります。
附てゐて呉れればねえ、漢字表記も分つたかも知れ無かつたでせうに、ねえ。
併し、此處からでも舊橋の橋脚跡の存在感が凄いであります。呵呵 |
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もう當時を偲ぶべくも無い風景なのでせうが、何か、見てゐてふと子供達が樂しく遊んでゐる笑ひ聲が聞こえて來さうな雰圍氣を感じましたよ。
如何か此儘殘つてゐて貰ひ度い物であります。
以上、御附合有難う御坐いました。 |