2677年 5月 2日 探訪
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と云ふ事で遣つて來ました十六橋であります。 現在の國道四九號、通稱越後街道の舊道に當る部分でも有り、安積疏水の爲の重要な部分でも有りと、手荒く歴史を感じさせて呉れる物件であります。 まあ、詳しい説明は檢索しますれば色々出て來ますのでアレでありますが、水門が出來てからでは現在の橋が三代目の樣であります。 昭和三年に架橋された物件との事でありますが、如何云つた物なのか、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。 因に、河東町物件と致しましたのは、地圖で見て單純に豬苗代町の部分依りも河東町の部分の方が多かつたから、であります。 |
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此方下流側の親柱は無記名であります。 意匠的には笠石が立派、と云ひますか之、全て石造でせうか。 |
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十六けう。 嗚呼、良いでありますね正假名遣ひ。 下側に混凝土が盛られてゐるのは後年に成つてからの補強と云ふ事でせうね。 |
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煉瓦積の橋臺が歴史を感じさせて呉れます。 之、多分に昭和に架橋された現在の橋と同時に作られた物では無く、先代橋からの物なのでは無いでせうか。 古の繪葉書を見ますと、何と無くさう云ふ感じに見て取れます。 親柱と鎖で繋つてゐる、控柱では無いと思ひますが、落橋防止の物であらう物も當時からの物の樣であります。 |
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横から見ますと、十八徑間の鈑橋、で良いのかな、であります。 橋脚も鐵管で出來てゐ度りと、現在目にする數多の橋とは隨分と違ふ構造に感心しきりであります。 後年、何時頃施工され度のかは不明でありますが、高欄は昭和四十年代以降に見られる物に成つて居りまして、多分其と同時に地覆も嵩上されてゐるのでは無いでせうか。 では右岸側へ移動致します。 |
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大正貳年十一月竣成。 何とまあ、親柱は先代の物の樣であります。 と云ふ事は、當然の如く橋臺もさうなのでせうね。 と成りますと、現在の橋の高欄は元々如何云ふ姿だつたのでせうか。 多分、畫像檢索で出て來る繪葉書は先代橋の物だと思はれますので、せめて昭和卅年代頃の冩眞が見られれば良いのでありますが、ね。 其共、先代橋と全く同一の姿だつたのでせうか。 |
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十六橋。 矢張ですね、永く殘すには石に文字を彫るのが一番な譯でありますよ。 今やコンピユウタアの時代でありますが、フアイル形式何てあつと云ふ間に廢れて仕舞ますからね。 |
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親柱の裏側には當時の高欄を偲ばせる痕跡が殘つて居ります。 |
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して、左岸側には十六橋水門として明治十三年に完成した當時の親柱が一つ殘されて居りました。 |
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此方、全て石造だつた事を想起させて呉れる、手荒く貴重な歴史的物件でありますね。 まあ、一連の此方の物件は平成廿年度に經濟産業省の「近代化産業遺産郡 續33」に認定され、平成廿八年度には日本遺産に認定されたさうでありますので、 此儘ずうつと殘つて行くでせうから心配は無いでありますが、變に觀光地化される事無く在れば良いなと思ひました。 併しまあ、餘關係無い話かも知れませんが、見てゐる間、ずうつと空氣がぽやあつとしてゐる感じでありまして、一寸、まあ、何人も居るなと云ふ感じだつたのでありますが、 此方を調べてゐる時同時に分つたのでありますが、成程、矢張此處も戰地だつたのでありますね。 何の位置に如何とかは視える人には分るでせうから敢て記しませんが、さう云ふ點も考慮して、敬虔に見るべき物件だなと思ひました。 以上、御附合有難う御坐いました。 其他、 【福島縣郡山市 麓山ノ瀧ト電動揚水機等】 【福島縣河東町-豬苗代町 十六橋水門ト、フアン・ドオルン氏ノ銅像等】 であります。 |