2683年 3月 14日 探訪
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此方は
【鹿沼市草久 小川橋】
依り一キロ強程大蘆川を上つた所に架る、栃木縣道五八號線舊道部分の橋であります。 一見して如何にも古い、下手すると戰前物件かと思へる雰圍氣の橋でありますが、其實如何でせうか。 と云ふ事゛て此方、左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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親柱の上に燈籠の頭だけが載つてゐると云ふ感じでありますが、如何にも古峯神社一乃鳥居の傍と云ふ雰圍氣であります。 |
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昭和九年四月架設。 成程、矢張戰前物件でありましたか。 銘板の雰圍氣が 【高根澤町上高根澤 古川橋】 や 【日光市宮小來川 鹽ノ原橋】 の樣でありますので納得でありますが、如何見てもゝつと大きな銘板が附てゐた樣な感じは何なのでせう。 |
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併し戰前物件で是だけ状態が良い儘殘つてゐるつて凄いでありますね。 正月等は古峯神社初詣の人とか車で混雜してゐたでせうに。 |
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あざあなはし。 まあアレでありますかね、本當でありましたら設計段階では鑄鐵の一囘大きな銘板にする筈が、物資の關係で此大きさの眞鍮製に成つたとかなので、 銘板を附る部分の混凝土が目立樣に成つて仕舞つたとかなのでせうか。 |
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高欄の意匠、戰前の物にしては珍しいと云ひますか、今迄之だけの規模の戰前橋を見てゐ無いでありますし、且つ未改修と思はれる物も初てなので何共云へませんが、 混凝土の柵の樣な姿に成つてゐる物は初て見ました。 |
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して、左岸上流側を見ました處、先代橋の物と思しき橋臺跡であらう部分を發見セリ。 では右岸側へ移動致します。 |
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と思つたら、右岸側にもしつかりと橋臺跡が殘つて居りました。 此方側は混凝土で造られてゐる樣にも見えますので、恐く大正時代頃の物なのでせうか。 |
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排水桝。 多分之は戰後に更新された物では無いでせうか。 |
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親柱も中々の姿でありますが、川牀の岩盤の凄さにも壓倒されます。 |
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大芦川。 おや、一寸待つて下さいよ。 確か此方昭和九年竣功なのに何故新字體なのでせう。 念の爲に拙愛用の昭和十二年一月廿五日發行新訂版廣辭林を引いた處、新字體は何處にも書かれて居りませんでした。 似た銘板の橋として紹介した二本も含て、うゝむ、戰前の銘板と思つてゐた物は、矢張混凝土の跡からもアレな通り、 實は物資供出でアレでありましたので戰後に附られた物だつたのでせうか。 謎であります。 |
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併し景色に映える親柱であります。 |
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字穴橋。 字穴とは何ぞやと思ひ檢索して見ましたが、洞穴とか何とか、さう云つた意味合なのでありますね。 と云ふ事は、此近くにさう云つた名所でも在るのでせうか。 |
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横から見ました處、何と此方ラアメン橋、RC門型ラアメン橋でありました。 似た樣な處で 【鹽谷町玉生-熊野木 梍橋】 が御坐いますが、此方の方も六年も先輩であります。 いやあ、戰前橋と云ふだけでも素敵でありますのに、其が珍しいラアメン構造と成れは、見られた喜びも一入でありました。 因に、親柱上の燈籠は昭和二十八年奉納、其と名前屋號が彫られて居りまして、其記念に設置された物の樣であります。 いや、もう手荒く滿足以外御坐いませんでした。 以上、御附合有難う御坐いました。 |