2680年 6月 15日 8月 18日 探訪
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此方は
【栗山村日向 名稱不明橋跡】
が見える野尻大橋から三キロ程栃木縣道廿三號線を川俣方面に進んだ處、鬼怒川に架る橋であります。 途中、此方の一キロ程手前に舊橋が在るのでありますが、何分訪問した時期が惡く、手荒く草生して居りましたので、其方は復の機會に讓り此方に來ました。 扨、ぱつと見如何にも昭和卅年前後の橋と云ふ感じでありますが、其實如何でせうか。 と云ふ事で此方、左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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道路に面する角には曲面を用い度りと、中々に凝つた意匠の親柱であります。 肝心の銘板は外れて居りまして、歸宅後に冩眞を見た處上に置かれてゐるのに氣附ましたが、何か此時はうつかりして撮り忘れました。 と云ひますか、意外と高さの有る親柱でありましたし、如何にも銘板が外側を向て居りまして、是は足場が惡くて何れにしても上手く撮れ無かつただらうと思ひ、 後日再訪する事に致しました。 |
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其から二箇月後、やつと再訪出來たのでありますが、最初遠目に見た時には銘板が消失してゐると思ひましたが、御覽の樣に附直されて居りました。 して、昭和三十三年三月竣功でありました。 年代的に縱書が多いのではと思ひましたが、まあ、 【藤原町中三依 三依橋ト舊橋跡】 の樣な事例も御坐いますので、此年代前後が過渡期と云ふ事なのでせうか。 |
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たけのうえはし。 洗出仕上の表面が、之は降雪地域では仕方無い事なのでせうが、可也剥れて居ります。 さう、此方「バシ」と不濁に「ハシ」なのであります。 |
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高欄は 【日光市寶殿 筋違橋】 や 【鹽谷町佐貫 觀音橋】 と共通の意匠でありますので、流石昭和卅年代初頭と云ふ感じであります。 |
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排水桝。 では右岸側へ移動致します。 |
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鬼怒川。 いやあ、此方の親柱も痛みが激しいでありますね。 まあ、未だ表面の剥れだけなのでありましたら良いのでありますが。 |
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一寸銘板が見辛いので近接して撮影。 字體、模樣は一般的な昭和卅年代の物であります。 |
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竹の上橋。 何か歪んで居りますね、親柱。 |
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此方も近接して。 |
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扨、右岸側では斯樣に長い距離でガアドレイル以前の轉落防止柵が設置されて居ります。 |
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勿論御覽の樣に兩側に、であります。 |
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さうして、左岸側にも少し許轉落防止柵が在るのでありますが、其は多分、御覽の樣に一徑間の上路ワアレントラスで架橋されて居りますので、
出來るだけスパンを短くし度かつた、其と急峻な地形の爲だと思ふのでありますが、橋臺を建設するには隨分と川面に近い處迄迫出させる必要が有つたからでは無いでせうか。 まあ、絶對的な轉落防止措置を考へつゝ製作費用等諸々を考へた時、現代でありましたらもつと良い工法が有るのでせうが、此當時でありましたら此位が妥當だつたのでせうね。 尤も、何時の時代でも落ちる方が惡いと云ふのは大原則だと思ふのでありますが。 不取敢、此方も中々に見所の有る橋でありまして、斯うしてじつくりと見られたのは良かつたであります。 以上、御附合有難う御坐いました。 |