茂木町馬門 渡戸橋

2675年 5月 12日 探訪

 以前に紹介致しました 【茂木町飯野 牀ノ澤橋】 、其先に當る此方がツインリンクモテギで分斷された町道の反對側に當る橋であります。

 因に、此方も逆川に架つてゐる橋であります。

 して、まあ、色々と見處は在るのでありますが、さうでありますねえ、結構橋の兩岸は土盛され、兩岸での高低差を無くす樣結構高い位置に架けられて居ります。
其と、當時物の儘だと思はれますが、ガアドレイルは古初代でありまして、丸柱、+螺旋が使用されて居ります。

 とまあ、一枚目では此程度に致しまして、此方左岸側から見て行きませう。
 渡戸橋。

 嗚呼、何か斯う云ふ親柱何處かで見た樣な氣が致しまして今迄の橋を隈無く見直し度のでありますが、如何やら勘違ひだつた樣であります。

 併しまあ、此寫眞だけでも結構高い位置だと云ふのが御分り戴けるでせうか。

 と、工事銘板ば親柱の内側に附て居りますね。
其だけで年代は大凡察しが附と云ふ處であります。
 昭和四三年三月竣功でありますね。

 此位置に工事銘板が附てゐる中では結構晩年の方でせうか。
 逆川。

 併し凄い川であります。
此姿でも改修後なのでありますから驚きであります。

 逆川は昭和六一年に臺風十號の影響で氾濫し、市街地に水が氾濫したのでありますが、其時の水位を示す線が今でも電柱にテエプで貼られて居ります。
とても信じられ無い樣な高さ迄、であります。
 排水桝。

 をゝ、之は完成當時の色が未だ殘つてゐると云ふ事でありますかね。

 形的には古初代ガアドレイル高欄の、所謂規格橋の物と同一でありますね。
 高欄がガアドレイルでは有りませんでしたが、如何にも西暦1960年代と云ふ感じの混凝土製であります。

 併し、川牀が一面岩盤と云ふ漢字であります。
 今度は下流側を見てみました。

 して、歸宅後に調べました處、此寫眞で云ふと右手、木が密集してゐる處迄川面の方に下りて行く道が舊道でありまして、其處から、其低い位置で渡河してゐた樣であります。

 昭和五十年の航空寫眞で見ますと、丁度舊橋の橋脚が一本立つて殘つた儘に見えますので、如何やら、多分でありますが、二徑間の混凝土橋だつたのでは無いでせうか。
多分戰前物件の。

 唯、其橋脚跡は、多分後年の河川整備で綺麗に撤去されたのだと思ひます。

 して、此中間部分でありますが、丁度拙の足幅位間隔が開いて居りまして、何か一寸怖かつたであります。
 さうして、現在では二徑間の鈑橋と成つて居ります。

 と云ふ事は、御約束の彼の會社製でせうか。
 して、之が偶然にも舊橋が架つてゐた邊から撮つた姿なのでありますが、多分舊橋の倍以上の高さに架つてゐると思はれます。

 まあ、渡河する爲に一旦下りて、再び登ると云ふ不便が解消されたと云ふ事でありますね。

 併し凄い土臺であります。
でも、何か後年に成つてからの補強と云ふ依りは、元から斯う云ふ姿で作られた樣に見受られます。

 して、左手、右岸側の桁に薄らと見えるのでありますが、矢張「八幡製鐵 製作 トピー工業」と書かれて居りました。

 では、右岸側へ移動致します。
 渡戸橋。

 之は如何やら左右兩岸で對稱の銘板の樣でありますね。
 逆川。

 彼の水害の時に此處ば何れ位迄水位が上つたのか分りませんが、若かしますと舊橋の時に何かしらの水害が在つたので、斯樣に高い位置に架橋し直されたのかも知れません。

 何か、茂木町の景勝地と云つても良い感じの場所だと云ふ感じの場所でありました。

 まあ、空氣感が一寸アレだつたのは牀ノ澤橋の時と同樣でありましたが、其は其で措いときます。

 以上、御附合有難う御坐いました。

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