2678年 12月 3日 探訪
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此方は
【日光市匠町 含滿大谷橋】
依り二キロ半程大谷川を上つた處に架る、栃木縣道二七七號線の橋であります。 ぱつと見には如何にも昭和卅年代物件と云ふ感じでありますが、親柱は質實剛健と云ふには一寸御洒落な感じであります。 扨、如何にも昭和卅年代物件と云ふ感じの橋の中では何方かと云ふと長大橋と云ふ感じでありますが、構造等も含め、其實如何でせうか。 因に、地區的には三地區に分れて居りまして、向つて右側が日光地區、左側中央迄が清瀧地區、中央から先が清瀧和之代町地區であります。 と云ふ事で、此方左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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和之代大谷橋。 上段に小さく和之代と書かれ、下段に大谷橋と書かれて居ります。 橋名は勿論、清瀧和之代町からの命名でありますが、其方に主導的な何かが在つたからこその名稱なのでせうか。 |
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大谷川。 高欄に對して、珍しく意匠の統一が成されて不居、親柱だけモダアンな感じに見受られますが、其低さが災ひしてか、結構痛んで居ります。 |
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排水桝は穴其儘でありました。 では右岸側へ移動致します。 |
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高欄は混凝土管を二本使用しました意匠であります。 唯、昭和卅年代的意匠ではありますが、何かと無く昭和廿年代の意匠と云つた方が良い感じの物ではあります。 |
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和之代大谷橋。 おや、左右兩岸で對稱な銘板の樣であります。 と云ふ事は、案外新しい、と云つても昭和卅年代後半以降の橋なのでせうか。 |
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此方はガアドレイルに邪魔されて見辛いでありますね。 併し親柱の意匠、曲面を使用してゐるだけでは無く、内側が奧まつてゐる等、意外と凝つた意匠であります。 |
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大谷川。 因に、何處にも橋歴板が附て居りませんでしたのが殘念でありました。 |
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横から見ました處、何と之は美しい、混凝土の連續桁橋でありました。 而も之、橋脚が如何見ても先代の石造の物を嵩上して流用してゐると云ふ素敵さであります。 而も、良く見ますと尖頭型では無く、舟形で良いのでありますかね、と云ふのも石造の物として現存してゐる中では珍しいのでは無いでせうか。 |
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而も之、後側はばつさりと切落されてゐるのでありますが、之は多分此方が架橋される時に斯う云ふ具合にされたのでは無いでせうか。 後側だけ平らに混凝土が塗られてゐると云ふのも不自然でありますものね。 併し主桁、美しいでありますね。 基本的にはT字桁の樣でありますし。 |
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中央部が薄く成つてゐる邊、本當に美しいであります。 扨、竣功年でありますが、調べました處、昭和卅五年でありました。 さう、此方冩眞でも冩つて居ります樣に、直横に新橋が架り供用開始されましたので、若かすると直に撤去されるのでは無いかと思ひ、慌てて取材に來た次第であります。 でありますので、少し慌てて撮影致しましたので、思つた樣に撮れてゐ無いかも知れませんが、其でも其姿を冩眞に收める事が出來て幸甚でありました。 して、此方に先代橋が架橋された頃を調べて見たのでありますが、大正時代の地圖では表記が無いので、多分昭和に入つてからの事だと思はれます。 では何故に架橋されたのかの推察でありますが、此方右岸側に社宅と思しき建物が多數航空冩眞に冩つて居りますので、若かしますと古川電工の社宅だつたのでは無いでせうか。 其社宅に住む人々の爲に架橋されたのが此方の始まりだつたのでは無いかと推察致しますが、今や其社宅も全て無く、其後に此方が縣道指定に成つた樣だと云ふのも色々とまあ、 色々でありますね。呵呵 併し此方、何か全て撤去されて仕舞もは手荒く勿體無いと思ふのでありますが、歩道として保存して行くと云ふ方法は無いのでありますかね。 以上、御附合有難う御坐いました。 |