2673年 12月 2日 探訪
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別段何の特徴も無いと思はれる、然しずつと昔から在る道の新道と舊道其々が渡る鎧川に架る二本の名稱不明橋。 但し架橋年度の新舊は逆轉してゐるかも知れ無いと思はれる點が面白いと思ひ、じつくりと見て行かうと思ひます。 御覽の通り、幅員の違ひから何方が舊道かは御分り戴けると思ひます。 勿論左手に進む方が舊道でありまして、此方は十九世紀の地圖にも既に描かれて居りますから、江戸時代は疎か、其以前からの歴史も無きにしも非ずの道かと思ひます。 して、眞直の新道の方でありますが、實は此方も結構古く、昭和十年代頃迄には既に作られてゐた道だらうと想像致します。 何しろ、昭和廿二年のGHQの寫眞には既に冩つて居りますが、皇紀二五八◯年(西暦1920年)頃の地圖には舊道しか描かれてゐ無いからであります。 まあ、之から見て行きます橋が其々の年代を紐解く鍵に成るかと推察する次第であります。 但し何方も名稱不明でありますがね。 |
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では先づ舊道側から見て行きませう。 昭和卅六年の航空寫眞では狹い儘に見えますが、昭和五十年の寫眞では此幅員と同樣に見えます。 でありますので、西暦1960年代に架替られてゐるのでは無いかと推察致します。 但し、親柱は兔も角、高欄が此方 【宇都宮市大谷町 名稱不明橋 【其一】】 に酷似してゐる事から、若かしますと後年に成つて何かアレに成つてゐるかも知れません。 併し、擴幅したにも關はらず、結局は元の幅員の儘で間に合つてゐる樣に思はれる處が何と云ひますかねえ、實際。 |
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まあ、ぱつと見には單純桁の混凝土橋と云ふ感じでありますが、何か橋臺と親柱の部分に一寸違ふ物を感じますので、も少ししつかりと見たいと思ひます。 併し、高欄が如何にも昭和卅年代風でありますが、何と無くの違和感が有る造型であります。 其と、白く塗られてゐるのは、後年に成つて手入れされてゐると云ふ事なのでせうか。 と成りますと、完成直後つて一體何色で塗られてゐたのか等、興味津々であります。 |
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斯うして見ますと、橋臺と桁の間が開いてゐる事から、奧まつた處に主桁が在るのが想像に難く無いので、多分T字桁なのでせう。 其と、何と無くでありますが、親柱つて元々は無く、後年に成つてから作られてゐるのでは無いでせうか。 |
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して親柱が結構面白い意匠をしてゐるのでありました。 丸でモアイ像の如きであります。 扨、此モアイ像的親柱なのでありますが、之が案外後年に成つてから架橋された橋で見掛る意匠でありますので、 多分でありますが、橋自體は手荒く古い物件なのかも知れませんが、元々は親柱も無い、若くは簡素的な背の低い物が附てゐる程度だつた。 其と現在の樣な高欄が附てゐた譯では無く、地覆しか無かつた爲、後年に成つてから安全の爲に増設されたのでは無いかと推察する次第であります。 |
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舊道沿に暫し流れる鎧川、右岸側の大谷石の護岸は一體何時頃施工された物なのでせう。 戰前は疎か十九世紀の物件でありましたら大感激なのでありますが。 して、最近に成つて此處の傍を大谷石運搬用の鐡路が通つてゐたのを知りまして(と云つても一番の寫眞を撮つた丁度其の邊り)、 其痕跡が若かし度ら在つたのでは無いかと思ひますと、も少し良く周邊を觀察すれば良かつたなと悔やまれる次第であります。 |
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次いで現道側でありますが、ぱつと見は明かに此方の方が古物件でありますね。 大谷地區の昭和一桁物件と比較しても遜色無い造型と思ひます。 と云ふ事で此方、開通當初からの物件かと思はれまして、年代的にも昭和一桁から十年代の物と見て間違ひ無いと推察致します。 |
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此方は見るからに單純桁かと思ふのでありますが、一寸逆光で見辛いでありますね。 若かしますと片側だけ擴幅と云ふ事も有得ますので、下流側からも見てみます。 |
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何か、之は怪しいと云ふ感じなのでありますが如何でせう。 二つ上の冩眞で見ますと、此方側の舖裝に罅が入つてゐる樣な感じにも見えますので、若かしますと此方側は新造されてゐるのかも知れません。 何か、主桁と地覆、高欄の附方が上流側の冩眞の物とは違ふ感じにも見えますので。 |
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だからなのでせうか、之だけ年代的な橋であれば銘板が取附られてゐても不思議では無かつたと思ひますのに、名稱不明の儘でありますのは。 若かしまして、飽迄も想像でありますが、戰時中の物資輸送の觀點から急遽作られた道だつたとか、さう云ふ歴史が隱されてゐるのでは無いかなとか、ふと考へて仕舞ひました。 |
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高欄の意匠的には、矢張昭和一桁代から廿年代迄の樣に感じます。 道路の勾配を緩和させるべく、市内方面側には舖裝が盛られて居りますね。 |
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さうして舊道と合流するのでありますが、舊道はそうそうに高い位置に避難する樣に進んでゐる點が興味深いであります。 して、舊道側が囘收された年代の大凡の特定でありますが、古ガアドレイル二世代目が目の前には附て居ります事から、昭和四六、七年頃の事だと推察致します。 まあ、別段何と云ふ事も無い橋でありますが、斯う云ふ處にこそ歴史的な事柄が潛んでゐると云ふ發見には成りました。 因に、四角い看板でありますが、完全に錆て居りまして、何が書いて在つたのか判讀不能でありました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |