2674年 1月 14日 探訪
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此方は
【宇都宮市三番町、天神一-南大通一、二 洗橋】
の上で、偶然にも發見致しました此如何にもな橋。 其が此方なのでありますが、いてふ通りの前身に當る道の橋だと氣附ましたのは、歸宅後に航空寫眞を見てからであります。 して、元々の通りは彼の橋を渡つたら右手に見える建物の處まで來て、其處から田川を渡つてゐた樣でありますが、 其痕跡は對岸に僅に殘る舊道的な部分だけと云ふ具合であります。 扠此方でありますが、確實に昭和卅五年以前だらうと云ふ推測と、遠目に見てもアレな高欄の意匠から、手荒く古い物件なのでは無いかなと云ふ印象であります。 其では此方、右岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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眞正面からでありますと上手く寫眞に收まりませんでしたので、一寸斜前からであります。 此寫眞では分り辛いのでありますが、蔦が絡つてゐる方は橋の中央部分から廣がつて居りまして、多分、道形に通り易い樣に便宜を計つた結果だと思はれます。 まあ、牀版の色の具合が途中で變つて居りますので、二徑間の橋なのでせう。 して、橋は川田用水とは直交して居りますので、其處で少し道筋が折る形に成りますので、線形としましては餘自動車の往來を考慮してゐるとは云へ無いと思ふのでありますが、 さう云ふ點も含て、古い橋だなと云ふ印象であります。 却つて、此蔦の絡つてゐる方が道に對しては眞直なのでは無いかと思つて仕舞ます。 因に道路奧、黄色いビルヂングの邊で現いてふ通りと合流であります。 |
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銘板は見えるかなと思つたのでありますが、如何やら消失してゐる樣であります。 と云ふ事が確認出來たゞけでもまあ良いかなと云ふ處でせうか。 |
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此方下流側も消失して居ります。 が、此感じから察しますに、結構以前から銘板は無いのでは無いでせうか。 併し可也痛んでゐる親柱でありますが、洗出の仕上等、結構手間が掛られてゐる邊、之は戰前物件で間違ひ無いと云ふ事でせう。 此方の 【御負ケ】 に載せた川田用水等の改修が昭和十二年と記されて居りましたから、多分其時に架橋された物件では無いかなと思はれます。 其でありましたら此仕上や銘板部分の寸法も納得でありますから。 |
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横から見ますと、二徑間橋である事が分ります。 但し一寸變則的なのでありますかね、右岸側の桁は如何にも戰前、昭和廿年代迄を思はせるT字桁なのでありますが、左岸側は單純桁なのでせうか、 ぱつと見にも主桁の厚みが違ふ事が分ります。 でありますので、T字桁に合はせた橋脚に、少し下駄で嵩上して高さを合はせてゐる樣に見られます。 と云ひますか、尖頭型の橋脚でありますよ。 之だけで戰前物件と云つてゐる樣な物でありますよね。 まあ、後年に成つて川牀は斯う云ふ具合に改修され度のでせうが、下りて歩けると云ふ譯でも無いのが殘念であります。 では、左岸側へ移動致します。 |
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左岸下流側は銘板を附られてゐた形跡が無い、と云ひますか、之は表面の仕上方も違ひ、上部の飾りも無く成つて居りますので、
後年に成つてから補修された序に銘板の跡も埋られて仕舞つたと云ふ事でありますかね。 其と、親柱の位置が少し桁の方に減込樣に成つてゐると云ふのも興味深いであります。 |
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上流側も同樣に補修されて居ります。 が、此方は上部の破損具合は其儘と云ひますか、補修された後に斯う云ふ具合に成つて仕舞つたのでせうか。 |
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高欄の意匠は如何にも戰前、昭和十年代迄を彷彿とさせる意匠だと思ひます。 排水は地覆の方からに成つて居ります。 |
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尖頭型の橋脚、格好良いであります。 斯うして見ますと、主桁の形式の違ひが興味深いであります。 |
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高欄表面の混凝土が剥てゐるのでありますが、其處で見られる此模樣、斯う云ふ具合に鐵筋が組まれてゐると云ふ事でありますかね。 嗚呼、併し影の具合が素敵であります。 斯う云ふ意匠ならでは、でありますね。 |
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最後に左岸側からの眺であります。 併し路盤は意外と状態良く殘つてゐると思ひます。 此幅員で昭和卅五年迄交通を支へてゐた譯でありますから、出來れば此儘の状態で殘つてゐて欲しいなと思ふ歴史的物件でありました。 因に、後程宇都宮市認定路線網圖や橋梁點檢結果を見ました處、猿ケ橋と云ふ名稱だと分りました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |