2673年 11月 19日 探訪
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此方は
【宇都宮市上大曾町-錦三 大曾橋】
から競輪場通りを二五〇米程東進した處に在る橋であります。 別段普通の、と云ふには親柱も高欄も獨特な意匠でありますが、まあ其は今の處措いとゐて、不取敢單成る一徑間の橋であります。 でありますが、實は此方が元々の田川に當る場所であります。 田川、實は結構面白く、源流から鬼怒川に合流する迄の間に何箇所も、元の流れが生きてゐる部分が點在するのであります。 河川改修でも殘されてゐると云ふ意味が門外漢には分ら無いのでありますが、きつと利水の面での措置なのかなと推察する次第であります。 と云ふ事で此方、右岸側から見て行きます。 因に、道路中央から南側は此方も錦三丁目であります。 |
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殘念乍銘板は外されて居ります。 と云ひますか、盜難被害に遭つてゐるのでせうか。 親柱の意匠、中々にモダアンな出來だと思ひます。 親しみ易いと云ひますか、上部の曲線の入り方がとつても素敵だと拙は思ふのであります。 其と高欄でありますが、全體が混凝土で塗固められてゐると云ふのも初て見ました。 處が裏側と云ひますか河川側、斯樣に強度を保つ爲か、支柱はきちんと作られてゐる物なのでありますね。 横の水道管は當時物でせうか。 鎖で繋がれた把手からして、もう使用されてゐ無い廢物件なのかも知れません。 |
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此方側も銘板は消失して居りました。 きつとですね、流儀的に云へば、完成當時は市道なのか縣道なのか不明でありますが、共に管理者は下流側に成りますから、此方右岸上流側に河川名、 さうして下流側の此方に橋名が入つてゐたのだらうと思はれます。 |
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で以て、不取敢道路側から見ると斯樣にのつぺらぼうな高欄であります。 では左岸側へ移動致します。 |
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まあ、當前の樣に左岸側も消失してゐるのであります。 |
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と云ふ事で、四本全てゞ銘板は御坐いませんでした。 出來れば竣功年度、橋名、現在の河川名が知り度かつたであります。 併し結構酷い破壞具合でありますよね。 嗚呼さうさう、現在の水道管は栃木縣河内廳舎の方から出てゐる管がさうなのでありますかな、多分。 きつと四車線化の爲の措置なのでは無いかなと思ひます。 因に、河内廳舎が出來る前は、此處に縣の水産試驗場が在つたさうであります。 |
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冩眞七の位置から振返りました處、舊字體の境界標が在りました。 と云ふ事は、結構以前から此方の通りを造る計畫が在つたと云ふ事でありますかね。 其が大東亞戰爭等で遲れたと云ひますか何と云ひますか、用地買收だけは早期から行はれてはゐたと云ふ事なのでせう。 して、さう成りますと此方は如何云ふ作りなのだらうと思ふのでありますが、當初から此歩道の在る姿で完成してゐる樣であります。 其は航空冩眞で確認しましたので間違ひ無いのでありますが、と成りますと其處で一つ疑問が芽生えるのであります。 當時、道路自體にも歩道が無いにも關はらず、何故に此橋は歩道を附て計畫し、完成させたのでせうか。 將來を見越しての措置だつたと云ふのでありましたら、尚更大曾橋の立場が無いと思ふのであります。 其邊が何だかなあと思ひつゝも、まあ、或る意味人間らしくて面白いぢやないのかと、微笑ましく思へて來るのでありました。 嗚呼さうさう、銘板は無いでありますが、多分に地名から取つて竹林橋とでも名附られてゐたのでせうかね、此方の橋。 と思ひましたが、後程宇都宮市認定路線網圖を見て居りましたら、新陽東橋と云ふ名稱だと分りました。 以上、御附合有難う御坐いました。 |