2674年 3月 11日 探訪
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【其六】からの續きであります。 【現在地】 堤防を下り、左折した處であります。 |
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右折します。 用水堀の護岸が石積と云ふのが素敵であります。 |
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扨、鬼怒川の渡河地點の前後、幅員は御覽の樣な感じでありますが、元々自動車が渡れる程の橋が架つてゐた譯では無ささうでありますので、
仕方が無いのかも知れません。 大體柳田大橋が出來たのが昭和四五年でありますし、其依古い氏家大橋だつて昭和卅九年であります。 其迄宇都宮近邊から自動車で鬼怒川を悠々と渡河出來たのは、前囘遣つた水戸北街道の鬼怒橋と陸羽街道の鬼怒川橋だけでありましたから。 まあ、實際此處の航空寫眞を見ましても、昭和四一年ので何とか自動車が通れるかな、と云ふのが架つて居りますが、 其も中洲を經由しての三本で渡ると云ふ状態でありましたから、交通量自體推して知るべしと云つた處でせうか。 と云ひますか、其當時の姿、見たいでありますよね。 |
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して、此處も道場宿と云ふ名の通り、昔は宿場町だつたのでせう。 |
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間も無く國道四〇八號、地元では通稱眞岡(モオカ)街道との交叉點であります。 |
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此處も一寸ずれた交叉點なのでありますね。 まあ、桝形と云ふのとは違ふとは思ひますが。 併し此處、國道側の道が擴幅されたのは廿一世紀に成つてからでせうか。 其迄は此處等だけ狹くて、或る意味交通の難所でありました。 |
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交叉點を過ぎ、清原の臺に登ります。 が、直進は新道である舊道でありまして、舊々道は右に折て行くのであります。 |
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【現在地】 でありますが、入つて直ぐに道は消失。 實際には先の草地の邊を通つてから大きく左に折、坂を登つてゐた樣であります。 |
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【現在地】 さうして、多分當時とは勾配も何も彼もが違ふでせうが、多分此邊を通つてゐたのでは無いかなと思へる場所を、進行方向を向て撮つて見ました。 |
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もう何だか面影が全く無いのでありますが、此神社の前に出てゐたのか、其共此鳥居の邊を拔てゐたのか、何共判斷に困りました。 因に、神社の參道改修は昭和四三年と石碑に彫つて有りましたが、昭和廿二年のGHQの寫眞では現在の姿と同一でありますので、關連は無い樣であります。 【最終囘】に續く。 |