2680年 5月 18日 探訪
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此方は
【日光市細尾町 八汐橋】
依り四キロ弱程國道一二十號第二いろは坂を進んだ處、
【日光市細尾町 深澤橋】
からは六キロ弱程國道一二十號第一いろは坂を遡つた處、大谷川に架る橋であります。 と云ひますか、華嚴瀧と栃木縣立日光自然博物館の近く、國道一二十號二荒橋前交叉點の處の橋であります。 何故國道の舊道と書か無いかと云ひますと、多分國道指定に成つた事は無いであらうと云ふ點と、前身に當るとしましても、 元々は軌道として計畫されてゐた部分を道路に轉用して開通させたと云ふ經緯が有るからであります。 等と屁理屈を竝べて見ましたが、扨、明智平から此處迄は元々日光登山鐵道の用地の樣でありますし、此方の橋は其當時の名殘でせうから、 對面通行時代のいろは坂から見ますと此方が正面と云ふか入口に成りますので、第一の橋を書いてからにした次第であります。 まあ、ぱつと見に當時の面影は皆無でありますが、不取敢此方左岸側から見て行き度いと思ひます。 |
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けごんはし。 日本語的に考へますと本來は「ケゴンバシ」だつたと思ふのでありますが、其處は其、アレな方々が不濁がアレだと云ふ風潮でアレし度のでせうから、 其内黒歴史に無成ければ良いなと拙的には思ひます。 併し隣の二荒橋が平成三年に架替に成つて居りまして、僅か廿數年の壽命だつた譯でありますが、流石泡沫期眞只中、斯樣な御洒落な意匠が好まれたのでせうね。 其に合はせて此方も全面的に作り直され度のでせう、銘板の下に華嚴瀧を描いた物が附て居ります。 が、拙的には以下省略。呵呵 |
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だいやがわ。 此方の繪は中禪寺湖でありますね。 と云ひますか、親柱は橋臺側に附てゐるのでは無いのでありますね。 |
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高欄はまあ、二荒山神社が近い爲に斯樣な意匠にしたのでせうね。 元の、と云ふか、現在の姿に改修する前は普通の橋、昭和卅年代的な高欄、親柱だつたと記憶して居ります。 |
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横から見ましたが、うゝむ、一寸木が邪魔で拱橋だと云ふのは分りますが見辛いでありますね。 と云ひますか、有得無い位の位置に親柱が附てゐるのに驚きであります。 |
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一寸移動して見ました。 之は二ヒンジスパンドレルブレエストアヽチと云ふ形式でせうか。 |
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橋臺部分。 では右岸側へ移動致します。 |
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華厳橋。 二荒橋と一緒の親柱に成つて居ります。 |
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大谷川。 上流側と下流側の銘板の下の圖柄は兩岸で對稱なのでありますね。 扨、竣功年でありますが、此方が開通しましたのは昭和七年の樣でありますが、多分アヽチ部分の構造や幅員等から考へますと、もつと後年の物と思はれます。 と云ふ事は、いろは坂が擴幅に成つた昭和廿八、九年頃に此方も同時に新調され度と見るのが妥當、と云ふ處でありますね。 でありますので、多分其頃完成した橋だと思ふのでありますが、如何せん何處を調べても出て來無いのであります。 其は多分、日光登山鐵道の私道だつたからだと思ふのでありますが、實際の處如何なのかは分りません。 まあ不取敢、ずうつと以前からしつかりと見たかつた橋が斯樣にちやんと見られて良かつたであります。 出來れば元の姿の時、否、元の姿の儘で見たかつた等と贅澤は云ひません。呵呵 以上、御附合有難う御坐いました。 |