2676年 4月 5日 探訪
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此方は國道一一九號、通稱日光街道の徳次郎交叉點から北上する事約一キロ半程、
【宇都宮市石那田町 田川大橋】
依りは二キロ程手前、新川に架る橋であります。 以前田川大橋を探訪した時には道の反對側だつたのと、歸路では別の道程を通つた爲に氣附無かつたのでありますが、偶々某ストリイトビウを見てゐた時に見落してゐたと氣附、 今囘の探訪と成りました。 まあ、片側だけ改修されずに殘つてゐると成りますと、餘程丁寧に觀察してゐ無いと簡單に見落して仕舞と云ふ良い教訓と相成りました。 と云ふ事で、此方左岸側から見て行きます。 |
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畑野橋。 至つて簡素、但ししつかりと親柱らしい意匠の親柱であります。 表面が洗出仕上、銘板では無く直に混凝土に名稱が彫られてゐる等、如何にも戰前、昭和一桁前後頃迄の物件を思はせる仕上であります。 但し字體は手荒く讀易い部類でありますので、判讀に苦勞し無いで助かりました。 併し結構現代の舖裝には減込んでゐると云ふ感じであります。 |
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高欄は斯う云ふ意匠、とは云へ、手荒く舖裝が盛られて居りますので、左岸側が下つて見えますが、水平なのは橋でありまして、
後年に成り勾配を緩和する樣に手荒く舖裝が盛られたと云ふ事でありますね。 では、右岸側へ移動致します。 |
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之は昭和八年九月竣功と云ふ事でせう。 手荒く埋つて仕舞つてゐる爲に九以下の文字が讀めませんが、多分日附迄は書かれてゐ無いと推察致します。 して、此位置からでありましたら高欄の意匠が何と無く分るでせうか。 |
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斯う云ふ具合に鐵棒が入つてゐるのでありますね。 と云ひますか、良くぞ物資供出でも取られずに無事だつた物であります。 併し此處だけを見て居りますと、戰前、昭和一桁時代の息吹が感じられる樣で素敵であります。 其にしましても、手荒く盛られた舖裝に耐荷重の心配をして仕舞のでありますが。 |
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横から見ますと、之は牀版橋と云ふ形式でありますね。 手前の歩道橋が現在の路盤の高さでありますから、まあ、下手すれば半分程は埋つてゐると云ふ譯であります。 |
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斯うして見ますと、實は結構斜橋なのであります。 下流側に親柱等の痕跡が確認出來無いのは殘念でありますが、まあ、すつかり埋つてゐるのでせうから無理な話に成りますしね。 併し斜橋にしましては均衡の取れた親柱、高欄だと思ひます。 其だけ戰前の美意識も高かつた、逆に當時の方が勝つてゐたと云ふ捉へ方が出來無くも無いと云ふ感じでせうか。 併しまあ、斯う云ふ土木遺産には到底成ら無い樣な戰前物件が何時迄も現役で供用されてゐると云ふのは素敵でありますね。 出來るだけ長く殘つてゐて欲しいと思ひます。 當時は永久橋として架けられたのでせうから。 以上、御附合有難う御坐いました。 |